「『鋭く、大きな直観』は、人が生来持っている資質ではなく、いくつもの試練を経て、その格闘の結果として、初めて身につける可能性が生まれる能力である

 この命題が、徐々に明らかになりはじめています。

 すでに、述べてきたように、田所雄介博士の場合には、その資質がどのように形成されていったかについての説明はなかったことから、その過程を、佐藤浩先生の事例を通して考究してみることにしましょう。

  佐藤先生は、1989年7月より、「ながれだより(流れ研究者集団)」を毎月発行し、じつに足かけ23年余、254号にわたる発行を行い、粘り強く情報発信を続けて来られました。

  毎号、A4版用紙4枚にびっしりと書かれた内容は充実していて、真に示唆に富む魅力的なものでした。

  その内容は、「乱れと秩序」論から始まり、現代技術の評論、人生回顧、ひいては社会現象にまで及ぶようになり、多彩でありながらも、鋭く切り込んだ評論が、読者を惹きつける要因ともなりました。

  私は、いつのまにか、この「たより」を愛読するようになり、その執筆者の一人にも加えていただけるようになりました。そして、次の重要な問題意識を抱くようになりました。

 ➊佐藤先生は、ご自分の専門ではないことについても、なぜ、あのように鋭い切り口で分析し、平易な文章でありながらも説得力を持っているのか?

 ❷この情報発信は、もともと何を意味するのか? その発信の源は、どこにあるのか?


  これらを考えているうちに、その解明の糸口は、佐藤先生の人生、そのもの、人間佐藤浩そのもにあるのではないかと思うようになりました。

  幸いなことに、その糸口を探し出せる文書が、その「ながれだより」のなかに、いくつかありました。

    これは、本記事の主題である「鋭く、大きな直観」のルーツともいうべき「できごと」であり、その後の佐藤浩先生の人生を大きく変える契機になったことでもありました。

  その最も象徴的な事件が、『ながれだより』第15号(1990年9月1日)の「原爆を憎むの記」に詳しく述べられています。

 その概要を、拙著『日本高専学会における佐藤浩先生の足跡』(日本高専学会誌、2014年10月号)には、その冒頭において、次のように記しています。

  201486日,広島は69年目の「原爆の日」を迎えた.いつもの暑い夏の盛りではなく,やや涼しさを覚える雨の午前815分であった.この日,佐藤浩先生(東京大学名誉教授,以下,敬称略.-1)が,被爆者として,平和公園式典における死没者名簿に奉納(慰霊碑)された.
  佐藤の『原爆を憎むの記』
1には,その日から,自分の運命が大きく変わっていったことが赤裸々に語られている.

当時の彼は東京大学第二工学部3年生であった.卒業を3か月後に控え,千葉で卒業論文を書いていた.広島の惨事は翌7日の新聞で知り,「新型爆弾が投下され,多くの犠牲者が出た」ことが報じられていた.

心配のあまり,近くに住んでいた兄と相談し,単身広島に帰る列車に乗り込んだ.

9日早朝に広島駅に到着した.駅前は,大勢の火傷の人々から流れ出た血の臭いで充満していた.自宅までの徒歩30分の道を進むと,途中の陸軍第二総司令部の前には無数の死体が並べられていた.その上を歩くと「ぐしゃり」,「ぐしゃり」と不気味な音がした.

母が住む自宅は爆心地からわずか2 ㎞の距離にあった.母は無事で,呉から駆け付けていた父とともに涙の再会を抱き合って果たした.爆弾投下時に,屋内にいたこと,そして,投下直後に黒い雨が降ったときに東風が吹いたことが幸いした.

翌日の10日は朝から,知人を探して爆心地付近を彷徨った.他の爆撃被災地と違って,そこにはまったく人がいなかった.

ようやく電車の中に人影を見つけ駆け寄ると,それらが黒焦げになった死体であったことに気づいて吃驚仰天した.いくら探せども目当ての知人は見つからず,瓦礫の中で歩を進めるうちに腹の底から怒りがわいてきた.

「これは,あまりにも無残な殺し方ではないか.必ず仇をとってやる!」

この思いが,その後の佐藤青年の心の中に深く沈み,澱みこんだ.この憎しみとともに,爆心地に強く残っていた放射線が染込み,知らないうちに原爆被爆者になっていた.

次に待っていたのは「死体焼き」であった.家の周りにも死体が放置されたままで,街中に死臭が充満していた.その死体を積み上げて焼いた.死体はなかなか焼けず水が溜まった腹を木で突き刺し,「シャー」と水を出させて焼き続けた.

まるで地獄のような光景であった.終戦も知らないままに,この死体焼きを続けていた.820日を過ぎた頃に,新聞を読んで,ようやく戦争が終わったことを知った.

  この頃から被爆した人々が次々に死に始めた.家族も下痢がひどくなり,血便が出始めた.被爆直後の爆心地を歩いて第二次被爆を受けたことに加えて,放射能汚染された野菜を食べたことが不調の原因であった.

「このままでは家族全員が死んでしまう.広島を出て,母の実家の坂出に行こう」,父の佐藤勉(海軍少将潜水艦隊司令官)が素早く決断し,宇品港から今治へと出航した.折しも台風が近づいており,嵐のなか命からがらの広島脱出であった.

この強烈な原爆体験が,その後の佐藤の人生に多大な影響を与えた.「かならず仇をとってやる!」という爆心地での思いが,学生,研究者として学問的研鑽を重ねるバネになり,苦しい時には自分を鼓舞させる原動力になった.

流体力学の大家,乱流研究の第一人者であった佐藤が他界したのは20131125日の朝であった.その後,遺族を中心に遺稿集『乱れ学』の編纂がなされ,その作業に参画し,若干の手伝いを行うことになった.すでに,佐藤の偉大な研究業績と貢献については,西岡の追悼報告がある2

参考文献

1)佐藤浩:原爆を憎むの記,ながれだより,No.15,pp.1-4,1990.

2)西岡通男:追悼の記・佐藤先生を偲んで,ながれ,第33巻,第2号,pp.195-198,2014.

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笑顔の佐藤浩先生(本日は、佐藤先生の一周忌にあたります。ご冥福を祈ります)