このシリーズの最初に戻って、これまでの論旨の流れを整理してみましょう。

 ➊主人公の佐藤浩東大名誉教授は、「鋭く、大きな直観」の持ち主であった。

 ❷同じく「鋭く、大きな直観」を有していたのは、「日本沈没」を予知した田所雄介博士(元岩手大学教授、小説上の架空の人物)であり、ここに、その重要な共通性があった。

 ❸研ぎ澄まされた「鋭く、大きな直観」を有するようになるには、自説を貫く勇気と忍耐力を有し、そのために孤立し、苦労をしても粘り強く自分を鍛錬することを繰り返す必要がある。ここにも、佐藤浩先生と田所博士の深部における共通性があったはずである。


 ➍しかし、田所雄介博士が、そのような深部の資質を、どのようにして形成させていったのか、これについては、その小説においては、まったく記述がない。

 ❺となると、この資質の探索は、佐藤浩先生の過去を探索するしかない。それは可能か。

 ❻田所博士が、人生の最後に到達した課題は、やがて起こる「日本沈没」の予知に関することであった。そのために、彼は、それまでの学者人生のすべてをかけて、その仕事に取り組んだ。これに相当する佐藤浩先生の「仕事」とは何であったのか?


 この❻の課題は、自ら持つ科学的知見を総動員して、しかも人生の集約としての取り組みですから、最高度において「鋭く、大きな直観」を働かせて、物事を遂行していくものだったのではないかと思われます。

 もちろん、私自身によって、その探索が可能であるのか、あるいは、その探索ができたとしても、それを正しく判断することができるのかどうか。

 このような思いが過りますが、ここは思い切って、そこに分け入って考察してみることにしましょう。

 そのために、まずは、❺の問題に関連して、佐藤浩先生の略歴を紹介します。

 ご遺族の資料によれば、以下の通りです。

 1924年1月11日、香川県坂出市で生まれ。父は海軍軍人、母は和洋洋裁学校出で、6歳上に兄がいて次男坊。生来、身体が弱く、小学校に行く前に疫痢で死にかけたこともあった。

 小学生の頃は、父の転勤のせいで転校をいくつも経験し、その度にいじめられる弱い児童であった。中学生になるとなると身体が丈夫になり、スポーツ少年になっていった。

 その後旧制広島高校の理科甲類に入学、ここで生涯こよなく愛する「酒」に出会い、自宅通学性でありながら寮に入りびたり、議論好きと映画の虫になった。

 1942年9月に東京大学工学部航空機体学科に入学、生涯の師となる谷一郎教授のもとで流体力学を学んだ。

 戦況は徐々に厳しくなり、1944年春には動員令が下り、横須賀の海軍航空技術廠で機械装置の設計に携わった。

 しかし、この技術廠も爆撃を受けるようになり、全国各地の技術廠に転々と配属された。

 そして、1945年8月6日の朝に、佐藤青年の運命を決定づける重要な出来事が広島で発生した。

 その知らせを千葉で聞いた佐藤は、
父母の安否を確かめるために、原爆が投下されて3日目の早朝に広島駅に辿りついた。

 幸い父母は無事で、そのまま地獄と化していた広島で終戦を迎えた。

 その後、坂出に脱出、高校の教師をしながら生計を立て、研究者としての道を歩むために東大大学院に入学、数々の辛酸を味わいながら、必死で勉学のに励み、アメリカ留学で、世界最先端の航空流体力学の研究に勤しんだ。




 その実績が評価され、母校の東京大学助教授に迎えられ、上述の谷一郎教授の後継者として教授に就任、学問においては、航空流体力学、乱流研究の第一人者として稀有な業績を重ねた。

ご遺族によれば、この東大教授時代が最も「破天荒」な人生を繰り広げられたそうで、その逸話は数限りなかった。

 1984年に東大教授を定年退官し、「流れ研究者集団」というユニークな組織を立ち上げ、人生における第二の仕事を開始された。

 その仕事において、最も重要な研究が世界初の「乱れ学」を創成し、その体系化を行うことであり、この研究においては、その体系化のおいて流体力学概念を哲学や社会論にまで拡張させた。

 この乱れ学の研究は、東京大学を定年退官されてから、2013年11月に亡くなるまでの28年間、それこそ粘り強く、こつこつと組み重ねられ、その体系化が成就された。

 以上が、佐藤浩先生の足跡の概略です。

 この人生を振り返りながら、佐藤先生の最大の特徴である「鋭く、大きな直観」は、どのようにして形成されていったのか、この問題を中心に、より深く分け入ることにしましょう(つづく)。



 歌川広重作、日本橋朝之景です。佐藤浩先生の「乱れ学」の第1章の冒頭には、この浮世絵が示されていました。ここから「東海道五拾三次」が始まったので、それに因んだのだと思います。