奈良県桜井市に建立されている総本山長谷寺のホームページにある境内、十一面観音像を拝見しますと、当時の寺の栄華と、その影響力がいかに強大であったかを容易に推測することができます。

このなかに、観音立像を拝観している人の写真があります。その観音様の足部や杖の一部を直に触ることもでき、その様子があたかも人がひれ伏しているかのように見えます。

この巨大な観音立像の高さは10.18mもあり、木像としては日本最大のものであることが記されていました。

「わらしべ長者」に出てくる、天涯孤独の青侍が、この観音様を仰いだときの様子を思い浮かべてみました。

彼にとっては、その黄金色に輝く様が、いかに絶大で、神々しかったことか、その前で、彼が深くひれ伏したことを鮮やかに想像することができました。

彼は、この観音様を祀る寺で21日間籠り、修行しました。それまでの苦渋に満ちた人生からの脱却を願い、それこそ、彼にとって縋るのは、この観音様だけだあったと思われます。

そして、必死の修業の末にいただいた、お告げでしたから、彼は、それを、どこまでも信じていたのだと思います。

真に、純粋透明に観音様のお告げを信じ、それに彼の人生のすべてをかけていたからこそ、「わらしべ的」展開が可能になったのではないかと思います。

それでは、私には、この青侍のような「信心」があったのでしょうか。

その境遇は、まるで違います。

観音様といえば、実際に拝見したのは、東京上野の国立博物館での「百済観音」だけでした。

しかも、この時は、なんと高貴で美しい容姿かとは思いましたが、そこに信心を求めることはありませんでした。

おそらく、多くの現代人が、このような信心を菩薩像に求めることはないのではないでしょうか。

また、私は、彼のように天涯孤独ではなく、家族もあり、長い間国家公務員としての収入もいただいてきましたので、彼ほどの赤貧を経験したことはありませんでした。

しかも、科学と技術を研究し、学生たちには教育を行ってきました。

これらは、そのすべてが、この青侍の境遇とは明らかに異なっています。

それでは、この青侍とは、まるで違うので、その比較が成り立たないのではないかといわれてしまいそうです。

ところが、私には、硬く信ずるものがひとつありました。これを信ずる心は、この青侍と共通しているのではないかと思います。

それが、「マイクロバブル」という新物質なのです。

現在のマイクロバブル発生装置をこの世に誕生させ、そのマイクロバブル技術を創成させたのは1995年のことですが、それ以来、私は、次のようにマイクロバブルの可能性を信じてきました。

 ①マイクロバブルには、優れた科学的性質があり、それは、分け入っても、分け入っても、汲みつくせない科学的な深さと広さがある。

そして、この世にマイクロバブルという新物質を誕生させた後は、その科学的価値が廃れることはなく、ますます豊かに、その価値が増していることが明らかである。

 ②マイクロバブルには、これまでの広大な技術の分野において、現実に存在する技術と容易に融合して発展を遂げるという優れた技術的本性がある。

それゆえに、マイクロバブル技術が進展すればするほど、そこに豊かな社会経済的価値が生まれ、独創的な世界が創出される。

 ③生物適応物質である空気と水を核として適用することから、生物を活性化し、その環境を蘇生させる力を有している。しかも、空気と水は、この地球上に大量に存在していますので、その材料費はゼロに近いという、卓越した優れた経済性を有している。

このように、科学的に深く、広く、そして無限に近い技術的適用分野を有し、現場の技術と融合し、そこから未来に向けてどこまでも発展できるのですから、こんな素晴らしいものはないと思ってきました。

ですから、私にとって、わらしべの青侍が信じた観音様と同じものは、じつは、マイクロバブルそのものだったのです。

京大教授だった山本宣治という生物学者が愛した、次の言葉があります。

「人生は短し、学問は長し」

私たちの人生には限りがありますが、マイクロバブルとしての学問(科学と技術)は、これから延々と、それこそ100年、1000年と続き、この世に、空気と水があるかぎり、マイクロバブルがしっかりと存在し続けることになります。

これが、わらしべ青侍の観音様に匹敵する、私の信心なのです。

青侍が、「虻のわらしべ」を子供に与え、そして蜜柑を得ても、そして、次には、その蜜柑を別の方に差し上げることになっても、その信心が決して揺らぐことはなかったのです。

その彼と同様に、私もマイクロバブルという存在があったからこそ、少々の大病においても左右されることはなかったのではないかと思っています。

「人生は短し、学問は長し」

(つづく)。

kosumosu 201310