2013年4月1日にK病院を退院することができました。その後、リハビリ通院をしながら、生活リハビリを行っていました。

たしか、その夏だったと思います。今やマイクロバブル仲間になったHさんが、そのK病院を訪問され、私どもとの共同研究の実験の様子を見学したいという申し入れがありました。

その夜、K先生からHさんと一緒の食事会に呼ばれ歓談をさせていただきました。その折に、研究開発の補助金の話が出て、これからは前向きに検討したい旨の発言をしました。

それが契機となり、翌朝に、その募集状況を調べてみると、その日から数えて1週間後に締め切りのものがありました。

通常は、それを見た時に、果たして間に合うかどうかを逡巡するのですが、その時はどういうわけか、速断し、それを共同で申請したいがどうかという検討のお願いをK病院にさせていただき、その文書作りに取り掛かりました。

間もなく、その了承の返事をK病院からいただき、すぐに、その申請書を、それこそ脱兎のごとく仕上げてしまいました。

これを速断に次ぐ、速攻というのでしょうか、その課題が新しい分野であったにもかかわらず、珍しく、その申請書づくりが澱むことなく進んでいきました。

もちろん、募集先の事情や背景をよく理解していたわけではなく、当たって砕けるしかないという気持ちで臨んだ申請でした。

そして、それから約1カ月後に、そのヒヤリング審査が行われました。このとき非常に役に立ったのが、すでに実験をいくつも行って得られていた貴重なデータにおける一つの成果でした。

その審査会のプレゼンテーションの最後に、このデータを提示したところ、それに関する質問がいくつも飛び出してきました。

このプレゼンテーションにおいては、その課題の中で最も大切な核心部分に絞って、その説明を行ったことが功を奏したようでした。

結果的に、そのすぐ後に採択の通知を受けて、K病院との共同研究をより本格的に発展させる基盤が整備されることになりました。

これらの出来事を「わらしべ」的に振り返りますと、まず、Hさんが、その実験の様子を見たいといってこなければ、その夜の食事会もなかったわけです。

そして、その食事会の席で研究開発の補助金申請に取り組むという意見を示さなければ、翌朝に、その募集を探すこともなかったはずです。

しかも、締め切りが1週間後でしたから、通常は、もう間に合わないと思って諦めたはずです。

ところが、そのときは、目の前にあるはずのいくつもの壁が、とんとん拍子になくなり、申請に間に合い、さらには、審査会でのプレゼンテーションもうまくいって、とうとう採択に至ったのでした。

結果的に、その採択を受けて得た金額は、私が入院して支払った金額の約4倍に相当するものでした。

これは、「虻を付けたわらしべ」が「大きな蜜柑3つ」と交換された事例とよく似ています。

じつは、K病院で実験を行った担当者が、私がリハビリを受けたS先生であり、この研究開発補助金によってS先生を中心にした共同研究における実験装置の開発が格段に進行していくことになったのでした。

こうして、この「わらしべ」は、次の第二段階に進み、さらにダイナミックなことが起こりはじめます。

それらは、次の稿以降で紹介させていただきますが、その前に、もう一つ考察しておきたい重要な事柄があります。

それは、青侍が、どこまでも信じた観音様が、私どもの場合は何に相当するのか、これをしっかり考察しておく必要があると思いますが、読者のみなさんは、そのことをどう思われますか(つづく)。


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