入院中のリハビリは、午前中にO先生、午後からS先生という具合で行われました。
しばらくして解ったことですが、この両先生が同じ患者にリハビリを行うことはないそうで、私の場合は、特別の配慮がなされたようでした。
午前中のO先生には、体力の回復とともに、徹底的に足の筋肉を鍛えることが求められました。
先生は、リハビリ医学に明るく、大学との共同研究もなされていて、スポーツ選手のリハビリにも優れた知識と経験を持たれていました。
私も、まじめに、O先生の日替わりメニューを熟していきました。そして、成果が出始めると、それがますますハードなものに変わっていきました。
たとえば、足の筋力を鍛えるために、あおむけになって足を上下に降ろすリハビリ運動があります。
これには荷重がかかるようになっていて、足を降ろす時に、その足かせの上端にゴムで付いていて、それを足で伸ばすと、その荷重がかかるという仕組みの装備があります。
そして、そのゴムの強さが患者の足の強さに応じていくつも変えられるようになっています。私の場合は、このゴムの荷重が50㎏用でした。
つまり、足に50㎏の荷重をかけ、それを下にゆっくりと押し下げさせるという訓練を行ったのでした。
これを毎日、数百回繰り返すことで、足の筋肉を鍛えるというのですから、これは健常者並み、あるいは、それ以上のリハビリ運動を課せられたということのようでした。
おかげで、この鍛錬によって足が強くなり、それが、その後の歩行において、いかに大切であるかを理解することができました。
また、S先生の場合には、そのリハビリの最後に、「平行棒」と呼ばれる装置を用いて、腕と足の力を鍛えるリハビリがなされました。
この平行棒は、腰あたりの高さで、その長さは約6mぐらいだったでしょうか。この鋼管に腕を立てて足を浮かせ、ジャンプするようにして歩を進める運動です。
最初は、この6mの往復が2、3回しかできませんでした。筋力がなく、頭もふらふら状態でしたので、それが限界でした。
これが、徐々に増やせるようになり、10回、20回と熟せるようになりました。
そのうち、リハビリごとに往復10回分を増やせるようになり、最後はたしか150回ぐらいまでできるようになり、S先生からとても褒められたことを思い出すことができます。
このように手足を鍛えたことが、いかに退院後の生活に役立ったか。そのことが、実体験のなかでよく理解できました。
この話をマイクロバブル仲間のK1さんにしたところ、それが彼にとっては大変刺激的だったようでした。
その日から寝る前に、汗をかくほどの手足の体操をなされるようになり、それが体調の維持に大変役立ったという嬉しい報告をいただいたこともありました。
読者のみなさん、とくに高齢者のみなさん、寝る前の手足のストレッチと体操が健康維持に重要な効果をもたらしますよ。どうか、試しに、やってみてくださると幸いです。
さて、少々前置きが長くなってしまいました。「わらしべ考」の続きを述べさせていただきます。
主人公の青侍が、長谷寺の十一面観音から、お告げをいただいた話をしてきました。
彼にとっての観音様の存在は、それまでの苦難に満ちた、報われない人生から脱出するための唯一のものでした。
親も兄弟もいない、天涯孤独の彼でしたから、頼り、縋(すが)るものは観音様だけだったのです。
この観音様信仰、あるいは観音様を信ずる心があったことから、その「お告げ」通りに、最初に手にした「わらしべ」を大切に持って旅をしていたのでした。
しかし、その大切な「わらしべ」を欲するものが現れたときに、彼は、それを迷わずに、それこそ速断速攻で差し上げる決断を下しました。
これは、彼の優れた気転の結果でした。通常の人間であれば、それを欲しいといわれた時に、そこで迷うか、その挙句は、差し上げられないと断ってしまうはずです。
ところが、彼は、その普通の人々とは違っていました。
苦労に苦労を重ねてきたことから、それを欲する人が現れたときに、それを差し上げて喜んでいただいた方が、観音様の教えに、むしろ沿うと考えることができたのだと思います。
ここには、「わらしべ」という物には拘らない、そして観音様の教えという、普遍的な、ある意味で絶対的な精神的信頼があったからこそ、その行動でよい、と判断されたのではないでしょうか。
その思慮深さが、「虻のついたわらしべ」を欲しがった子供の母親を感動させ、そのお礼にと、「大きな蜜柑」を3つもいただくことに繋がったのです。
ここで、注目すべきことは、「虻の付いたわらしべ」と「大きな蜜柑3つ」は等価ではなく、明らかに蜜柑の方が価値が高かったことです。
母親の感動分が付加されて、大きな蜜柑3つを手に入れたというわけです。
そこで、私の場合においては、この「大きな蜜柑3つ」とはいかなるものであったのか。ここが問題になります。
「虻の付いたわらしべ」は、リハビリを通じて、セラピストの両先生にマイクロバブルのことを知っていただき、私もリハビリのことを勉強できたことにありました。
その蜜柑3つは、それよりも、はるかに価値の高いものですから、それに「ふさわしい重要な何か」でなければならないはずです(つづく)。
しばらくして解ったことですが、この両先生が同じ患者にリハビリを行うことはないそうで、私の場合は、特別の配慮がなされたようでした。
午前中のO先生には、体力の回復とともに、徹底的に足の筋肉を鍛えることが求められました。
先生は、リハビリ医学に明るく、大学との共同研究もなされていて、スポーツ選手のリハビリにも優れた知識と経験を持たれていました。
私も、まじめに、O先生の日替わりメニューを熟していきました。そして、成果が出始めると、それがますますハードなものに変わっていきました。
たとえば、足の筋力を鍛えるために、あおむけになって足を上下に降ろすリハビリ運動があります。
これには荷重がかかるようになっていて、足を降ろす時に、その足かせの上端にゴムで付いていて、それを足で伸ばすと、その荷重がかかるという仕組みの装備があります。
そして、そのゴムの強さが患者の足の強さに応じていくつも変えられるようになっています。私の場合は、このゴムの荷重が50㎏用でした。
つまり、足に50㎏の荷重をかけ、それを下にゆっくりと押し下げさせるという訓練を行ったのでした。
これを毎日、数百回繰り返すことで、足の筋肉を鍛えるというのですから、これは健常者並み、あるいは、それ以上のリハビリ運動を課せられたということのようでした。
おかげで、この鍛錬によって足が強くなり、それが、その後の歩行において、いかに大切であるかを理解することができました。
また、S先生の場合には、そのリハビリの最後に、「平行棒」と呼ばれる装置を用いて、腕と足の力を鍛えるリハビリがなされました。
この平行棒は、腰あたりの高さで、その長さは約6mぐらいだったでしょうか。この鋼管に腕を立てて足を浮かせ、ジャンプするようにして歩を進める運動です。
最初は、この6mの往復が2、3回しかできませんでした。筋力がなく、頭もふらふら状態でしたので、それが限界でした。
これが、徐々に増やせるようになり、10回、20回と熟せるようになりました。
そのうち、リハビリごとに往復10回分を増やせるようになり、最後はたしか150回ぐらいまでできるようになり、S先生からとても褒められたことを思い出すことができます。
このように手足を鍛えたことが、いかに退院後の生活に役立ったか。そのことが、実体験のなかでよく理解できました。
この話をマイクロバブル仲間のK1さんにしたところ、それが彼にとっては大変刺激的だったようでした。
その日から寝る前に、汗をかくほどの手足の体操をなされるようになり、それが体調の維持に大変役立ったという嬉しい報告をいただいたこともありました。
読者のみなさん、とくに高齢者のみなさん、寝る前の手足のストレッチと体操が健康維持に重要な効果をもたらしますよ。どうか、試しに、やってみてくださると幸いです。
さて、少々前置きが長くなってしまいました。「わらしべ考」の続きを述べさせていただきます。
主人公の青侍が、長谷寺の十一面観音から、お告げをいただいた話をしてきました。
彼にとっての観音様の存在は、それまでの苦難に満ちた、報われない人生から脱出するための唯一のものでした。
親も兄弟もいない、天涯孤独の彼でしたから、頼り、縋(すが)るものは観音様だけだったのです。
この観音様信仰、あるいは観音様を信ずる心があったことから、その「お告げ」通りに、最初に手にした「わらしべ」を大切に持って旅をしていたのでした。
しかし、その大切な「わらしべ」を欲するものが現れたときに、彼は、それを迷わずに、それこそ速断速攻で差し上げる決断を下しました。
これは、彼の優れた気転の結果でした。通常の人間であれば、それを欲しいといわれた時に、そこで迷うか、その挙句は、差し上げられないと断ってしまうはずです。
ところが、彼は、その普通の人々とは違っていました。
苦労に苦労を重ねてきたことから、それを欲する人が現れたときに、それを差し上げて喜んでいただいた方が、観音様の教えに、むしろ沿うと考えることができたのだと思います。
ここには、「わらしべ」という物には拘らない、そして観音様の教えという、普遍的な、ある意味で絶対的な精神的信頼があったからこそ、その行動でよい、と判断されたのではないでしょうか。
その思慮深さが、「虻のついたわらしべ」を欲しがった子供の母親を感動させ、そのお礼にと、「大きな蜜柑」を3つもいただくことに繋がったのです。
ここで、注目すべきことは、「虻の付いたわらしべ」と「大きな蜜柑3つ」は等価ではなく、明らかに蜜柑の方が価値が高かったことです。
母親の感動分が付加されて、大きな蜜柑3つを手に入れたというわけです。
そこで、私の場合においては、この「大きな蜜柑3つ」とはいかなるものであったのか。ここが問題になります。
「虻の付いたわらしべ」は、リハビリを通じて、セラピストの両先生にマイクロバブルのことを知っていただき、私もリハビリのことを勉強できたことにありました。
その蜜柑3つは、それよりも、はるかに価値の高いものですから、それに「ふさわしい重要な何か」でなければならないはずです(つづく)。
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