昨日は、地元の地域を視察してきました。

その視察地のなかに、教育機関の跡地もありました。高齢化とともに少子化も進み、学校が統廃合されています。

そこは、広いグランドと校舎の一部がそのままになっており、これらの跡地利用が検討されているようです。

同時に、この問題は、かつての中心市街地の衰退にも関係しています。

狭い道路の両脇には、かつて栄えたのは昭和の時代でしょうか、そのころの面影を残した家並みがひっそりと佇んでいました。

ここには、家並みや学校が、時代にすっかり取り残されていく姿がありました。

このように地域のなかでの人や物の流れが変化することは必然であり、ある意味で仕方がないこといえば、そうともいえますが、しかし、また一方で、それでよいかという問題もあります。

中央には東京や大阪があり、地方には県庁所在地の大分があり、そのさらに地域には、国東市があり、そのなかに、これらの市街地と跡地があります。

問題は、川の流れのように決して逆流がないままに、その地域格差の差が隅々にま徹底して進行していることにあります。

川は下流にいくほど大きくなり、たくさんの水を流すようになりますが、人やお金の流れは、それとは逆で、末端にいけばいくほど先細りになってしまいます。

しかし、世の中には、この先細りの流れとは無関係の普遍的な価値を有するものも少なくありません。

その代表例は、水や空気、土、空であり、科学や技術も、その資質を有しています。

都会であろうと先端の地域であろうと、水や空気はふんだんにあり、科学や技術の成果を平等に適用することができるのです。

「ちょっと待ってください。地方におるものは、科学技術の恩恵をあまり受けていないのではないですか? その恩恵は中央の都会の方が圧倒的に大きいのではないですか?」

そうですね。これまでは、そうだったのかもしれません。いや、そうだったと思います。

大学や高専にかぎっても、その研究費は中央の大学と比較すると比較にならないほど違いますので、そのご指摘は間違っていないのだと思います。

「そうですよ、大学や高専でも、どちらかといえば、いや圧倒的に都会のために研究をしてきて、その成果をつぎ込んできたのではないですか?」

この意見に対しても、「いや、違う」という反論はできません。この指摘も当たっているからです。

これらの指摘を踏まえますと、地域にも平等に適用可能な研究成果が少なかった、すなわち、「地域に根ざすことが可能な科学や技術」が少なかった、あるいは未発達であった、このようにいえるのではないでしょうか。

考えてみれば、今や、上記のように衰退している市町村や地域の数は圧倒的に多く、むしろ都会の方の数の方が少ないのです。

それゆえに、「地域に根ざした科学と技術」の開発と最高度に近い利用ができるようになることが重要なのです。

これまでの実績を踏まえますと、マイクロバブルの科学と技術は、この「科学技術」になれる可能性を有していると思います。

それが未だ不十分で未熟な段階に留まってきたのは、その実践例が圧倒的に少なかっただけのことであり、それを行うとすると地域には無限に近い実験場が転がっています。

地域を丸ごと第三の研究拠点とすることを先日のブログで書かせていただきましたが、その実践を行うことで地域に根を張る時期が来た、国東の冬を迎えて、このような思いを強めているこの頃です。

つづく

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庭に咲いた紅い花(フォーエバー)、2012年11月20日、筆者撮影。