渡老人の2つ目の質問に対して、田所所長は言下に答えられました。
「カンです」
「何といったかな?」、思わぬ返事に、老人は即座に理解できずに、再度聞き返しました。
「カンと申し上げたのです」田所博士は、確信を込めていった。
「おかしいとお思いになるかもしれませんが、科学者―――とくに自然科学者にとって、最も大切なものは、鋭く、大きなカンなのです。―――カンの悪い人間は、けっして偉大な科学者になれません。偉大な発見もできません」
「よろしい、わかった」老人は大きくうなずいた。
「では、これで」
こういいながら、渡老人は、あっけにとられていた田所博士の前から去っていかれました。
この老人にとって、その返事で十分だったのです。
これで、田所博士の正体を見抜いたのでしょうか、しばらくして、この老人からの推薦を受けた内閣総理大臣の部下が田所研究所を訪ね、日本沈没の信憑性を調査する「D-1計画」がスタートすることになりました。
この場合、その「カン」を働かせたのは、その渡老人の方であり、炯眼を身につけられていました。
さて、ここで、田所博士がいった「カン」とは何か。この意味が気になります。
そこで、この「カン」の意味を調べるために、辞書を紐解きました。そうすると、「カン」と読める文字は100以上もありました。
その中から、思い当たる文字を3つ選びました。
「感」、「勘」、「観」。
ここで、作者は、どの「カン」 なのかを明らかにせず、単に「カン」といって、その用語に関するイマジネーションを刺激させたかったのでしょうか、そのどれかは明らかにされていませんでした。
感じる:感覚器官を通じて、外からの刺激を知る。
勘ず:調べる。
観ずる:思いめぐらして物の真理・本質を悟る。
これらを踏まえると、「カン=観」といえそうですが、それは読み進めないと明らかになりません。
それは、後の楽しみとして、ここで、田所博士が強調されたのは、その「カン」においては、鋭さと大きさが必要といったことにあります。
誰しも、カンというものを持たれています。それに基づいて判断や行動をなされる方も少なくありません。その際に、その鋭さと大きさが重要だと田所博士は指摘したのです。
すなわち、その鋭さにおいて優れず、鈍いこと、また、その規模において小さいことに留まれば、何もならないということになります。
そのカンを問題にするのであれば、鋭さに優れ、そして、その規模においては大きさが必要だというのです。
結果的に、この田所博士による日本沈没の余地は、何千万人という人々の命を救うことになったと、その時の山本首相が、そのご本人にいうシーンがあります。
この鋭さとは、ヒトの命を救えるというレベルのものであり、その大きさとは、何千万人という数のことに相当したのだと思います。
ですから、日本沈没という破局において求められたことは、何千万人というヒトの命を救うことであり、それに最も貢献したのが、田所博士だったのです。
ですから、その「カン」というものは、何千万人の命と暮らしを救うことができるかどうかの「カン」だったといえるでしょう。
ですから、鋭く、そして大きな「カン」を大切にする、そして育てることがとても重要であるように思われます。
これは37年前に求められた命題ですが、今日の時代にも必要とされるのではないでしょうか(つづく)。
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