私の田所博士研究も、最後の方になってきました。
おかげで、「科学者は何をすべきか」、また、「その資質として何を持つべきか」、それらが、この歳にしてですが、ようやくはっきりとわかったような気がしてきました。
さて、小説の作者は、田所博士をして、マスコミをにぎわした「変人科学者」で終わらせることにはしませんでした。
彼は、それこそ日本列島のほとんどが彼の予見通りに沈みかけたときに、陰で山本首相を支援し、動かしていた渡(わたし)老人のところに現れます。
映画では、渡老人と山本首相が最後の別れをしたのちに、田所博士と出会うシーンとしてつくられていましたが、小説では、渡老人と田所博士がしっかり話し合うところが、最後のクライマックスとなっています。
さて、その大切な田所博士と渡老人の会話を紹介するまえに、渡老人のことを述べておきましょう。
彼の国籍は中国人であり、3代にわたって、このような国の中枢を陰で支える、支援を行う仕事をしてきたようです。
その意味で、「重要な世間の部分」を「渡り歩いてきた」からでしょうか、その名前も渡(わたし)と付けられていました。
この老人、いろいろな方法で、大変な蓄財をされていたようですが、それらを投げうって、「D計画」で人を動かす源、すなわち資金の援助をなさた方でした。
いざとなれば、ヒトもカネも動かせる、あるいは動かせた人だったのです。
そういえば、昨日の忍者映画にも、「わたり」という海を渡り歩くような集団がでてきました。決まった場所に落ち着くことはなく、船で各地を訪れては、何かをしでかす集団でした。
もしかして、渡老人の先祖は、そのような方だったかもしれませんね。
とにかく、日本沈没という巨大現象を前にして、少しもたじろぐことなく、山本首相に、田所博士を紹介し、D計画を実施に向かわせた、それこそ資材を使い尽くしてでも、それを実行させた人物でした。
そして、田所博士を「見聞き」した人物でもありました。
そのシーンを、今一度思い起こしてみましょう。
「科学者にとって一番大切なことは何ですか」
「鋭く、大きなカンです」
この場合の「カン」は、「管」ではなく、「直観」でした。
この一言で、田所博士のすべてを理解し、山本首相に陰で進言し、D計画を開始させたわkですから、その生みの親でもありました。
この映画では、その役を島田正吾さんが見事に演じられていました。
島田さんといえば、国定忠治ですが、私には、映画「男はつらいよ」での松坂慶子さんの義理のお父さん役が「最高によかった」ですね。
その映画のなかで、松坂さんと一緒にタンゴを踊ったシーンは最高に格調高いものでした。
そこで、その渡老人と田所博士という両怪物の話し合いのシーンに戻ることにしましょう。二人とも覚悟を決めて、日本沈没とともに自分の運命も任せることにしていました。
ですから、二人とも腹の据わった本音の意見を吐露し、悔いなく死んでいきたいと思っていたのです。
田所博士が、この渡老人に語りかけたことは、次の2つでした。
①私は、日本が本当に好きだった。だから、自らの命も日本とともに沈めていく。
②日本民族はまだ若い。いままでは、島国のなかで甘えて育ってきた。だから、大陸に逃れた日本人は、そこで鍛えられ、たくましくなっていかねばならない。
自らの命は、日本列島とともに終わるが、残った日本人には熱い期待が寄せられていました。
これには、渡老人も理解を示し、「そうか、あんたは、日本が本当に好きだったんじゃな」と自分と同じ感慨を示されます。
そして、日本民族の行く末についても、田所博士と同じ期待を示されます。ここで、じつは、自分は、日本字ではなく、中国人であったことが明らかにされますが、そこには、他民族者としての彼が、日本に尽くした姿が示されていたのでした。
この結末は、作者の小松左京さんが、これを第一部の終わりとして、次に進む布石であったと思われますが、結局、その第二部の執筆はなされませんでした。
最後に、田所博士のことをもう一度考察させていただきますが、彼のいう、「鋭く、大きな直観」を働かすことができるようになるには、「どすればよいか」、これが明らかになることが最も重要なことだといえます。
それは、この最後のシーンでみごとに、本人自身から語られています。
「それは、本当に好きになること」なのです。日本列島を好きになれたこそ、田所教授は研究に打ち込み、そしてさらに愛することができたのでした。
ですから、好きになることができれば、それを本気で繰り返しているうちに、その「鋭く、大きな直観」も鍛えられ、さらに、鋭く、大きくなっていくのだと思います。
N大学のN学長も、この「好きになる」ことを強調されています。
月並みですが、自分が選んだことを本当に好きになり、それを不断に繰り返す努力を重ねることで、自らの直観は、より鋭く、大きくなっていくのだと思います。
これは、ささやかですが、私にも当てはまることであり、マイクロバブルのことが本当に好きになり、その経験を通じて、それにふさわしい直観も養成されてきたのではないかと思われます。
みなさんも、自分が選んだことをとことん好きになり、その直観を、より鋭く、より大きくしていくことに挑戦されてみてはいかがでしょうか。
「発見とは、皆が見てきたものを見て、皆が考えなかったことを考えることだ」
アルベルト・セント・ジエルジ(生化学)
(この稿おわり)。
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