フランスとの国境近くにある南ドイツのカールスルーエ大学にいたハーバーの夢は、ベルリンの国立ウイルヘルムカイザー研究所の教授になることでした。
そして、自らはユダヤ人でありながら、ドイツ帝国に尽くし、それを認めていただくことに心血を注ぎます。
その第一の踏み台が、空気中の窒素からアンモニアを生成する方法の開発でした。
高温高圧下で、窒素と水素を反応させてアンモニアを合成することができるはずだと、わずか10㎝四方程度の装置でしたが、それを動かし、とうとうアンモニアの液体が流れ出してくることを確認します。
この成果をもとにして、アンモニア生成に関する実施契約をBAFS(当時の化学会社)と契約交渉に臨みます。
当時は、第1次大戦の、それこそ前夜の時でしたので、ドイツ政府も、その開発に強い関心を寄せていました。それゆえにBAFSも必死で、かなり良い条件をハーバーに提示していました。
もちろん、彼は、これをバネにして研究条件やスタッフづくりにおいてもより充実することを目指していましたので、その契約条件を受け入れました。
これを受け、BAFS側は、その技術担当者として若きボッシュらを送りこんできました。
そのボッシュは機械いじりが好きな技術者であり、技術で自分を磨くという意味においては根っからの「技術者」でした。
会議よりも、機械と接していたい、これが彼の心情であり、それが原点となってブレイクスルーが起こっていくのでした。
ボッシュらは、ハーバーの研究室を訪れ、その問題の実験の様子を、その目で確かめようとしますが、その日はあいにく実験の準備が済んでおらず、予定時間までには、そのアンモニアの液体は流出してきませんでした。
予定があったボッシュは、この実験結果を最後まで見届けることができませんでしたが、部下たちが、それを確認して、その結果をBAFSに持ち帰り、報告します。
このボッシュらに与えられた役割は、この実験装置の大型化であり、大量のアンモニア生成を可能とすることでした。
アンモニアさえ生成することができれば、それから戦争のための爆薬をつくることができ、さらには、農業用の肥料を生産することが可能だったのです。
しかし、この実験は苦難の連続でした。大型実験装置を製作し、その度に試験を行うのですが、その度に失敗を繰り返し、おまけに、その事故のために多くの負傷者や人命を失うことさせ余儀なくされたのでした。
なにせ、300気圧、500℃の世界を実現することですので、それを鉄の壁のなかで実現する必要がありました。しかし、当時の技術力では、それは並大抵なことではなかったのです。
その失敗の多くは、爆発事故であり、少なくない怪我人や死亡者をだしながら、徐々に、その防爆体制を整えていきました。
こうなると、ハーバーの理論や知恵は、ほとんど役立たず、ハーバーの成功は、ボッシュらによる、その大型装置の性能いかんにかかっていました。
反応タンクの壁を十分に厚くし、それが爆発しても、危害がないように、周囲にコンクリートの壁をつくるという二重の対策を講じました。
これで爆発の危害は少なくなりましたが、それでも、反応装置の鉄の壁が弱く、亀裂が入って壊れたのです。
それは、周囲の壁を成す鉄と、内部に送り込まれた水素が反応して、結果的に弱い鉄の化合物をつくっていたからでした。
ここで、ボッシュらの挑戦は継続できないようになり、完全に頓挫してしまいました。
なんとか、よい解決方法はないかとスタッフ全員に解決法を考えよと指示しますが、その「よいアイデア」がすぐに浮かんでくることはありませんでした。
一方、ドイツ政府は、この実験の成功を当てにして戦争を行うことを決めていました。
それこそ、「待ったなし」の状態で、そのブレイクスルーが可能な「ひらめき」が必要とされていましたが、それが容易に生まれる状況にはなかったのです。
ボッシュの双肩に圧し掛かる重量はますます大きくなり、いよいよ絶体絶命に近い状態に追い込まれていました(つづく)。
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