このところ研究補助金の申請書ばかりを書く日々が続いています。どこの大学でも同じだそうで、研究費を確保しようとすると、自ら、その努力をしなければならない時代がやってきているようです。

これを「競争的資金」とか、「外部資金」とかいうそうですが、それを若い時から当然のこととして受容していかねばならない今の若手にとっては、これは大変なことだと思います。

なぜなら、若手にとっては、その多くにおいて研究資金を外部から得ることに必ずしも恵まれていない状況があるからです。

ですから、苦労に苦労を重ねて、自らの研究資金を得るという特別の努力が必要になります。

そして多くの場合は、この資金が「実用化につながるものである」ことが要求されますので、その基礎的な研究を行う段階のものでは、採用されないことが多いのです。

ここにも、基礎軽視、実用重視の傾向があり、それにどうしても影響を受けてしまうようになります。

それから、わずかな研究補助金を得ようとしても、その申請において書く量は、そんなに変わりませんので、それを書き続けることに慣れていないと、すぐに諦めてしまうことになります。

それも競争だから仕方がないといえば、その通りですが、申請側は、常にその準備をして対応して対応していかねばならないのですから、これも簡単なことではないのです。

少し整理しますと、「研究費がないと研究できない」と思う方は、自分でもそれを確保する努力が必要になり、そうでない方は、「お金のかからない知恵で勝負するか」、それとも「研究を諦めるか」のどちらかしかなくなっているのです。

若い研究者を育て、将来の日本を背負っていただく必要があるのですが、これについては、どうも、「鋭く、大きな直観」ではなく、「鈍く、小さな場当たり」で済まされているようで、果たしてこれで良いのだろうかと思うことがあります。

ある村の村長がいっていました。

「豊かな自然や水、空気はたくさんありますが、無いのはお金と知恵である」

こうなると、その「知恵」で、しかも、「鋭く、大きな直観に基づく桁違いの知恵」で勝負するしかありません。

これさえあれば、「お金がなくても研究できる」ことになりますし、また、その逆に、「お金の確保ができるようになり、研究も進むことができるようになるのです。

しかし、補助金の申請書を書き続けていると、よいことが一つだけあります。それは、今後の研究計画の道筋がより明確になっていくことになります。

すなわち、なにをどこまでやるのか、その期待される成果とは何か、どこにチャレンジ性があるのか、より具体的な研究計画の明示などが自然に明らかになり、終いには比較的円滑に書けるようになれるのです。

これは頭の整理に非常に便利であり、今後に生かせる到達点といえます。

さて、その私、その申請書を本日仕上げて提出させていただきましたが、すぐ次に待っているのが月末締切のものです。

さらにアイデアを練りに練って書き上げ、月末までに滑り込みセーフで提出といきたいところですが、どうなることでしょうか。

これもせっかくですから、あまりシリアスに考えずに、楽しくゆかいに書きたいと思っています。

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