今年も師走を迎えました。こちらは昨年にも増して暖冬ですが、そちらはいかがですか。

最近、そちらにある企業の方と親しくなり、ひょっとしたら、近々、そちらに伺うことになるかもしれません。

さて、マイクロバブルについては、いつも一方ならぬご関心を示していただきありがとうございます。

おかげで、本技術は、徐々にですが、しかし着実に広がり始めていて、その様はまるで燎原の火のように見えてきて、創始者の私としては、その様をとても喜んで眺めています。

このような本技術の広がりと進展に伴って、その技術の持つ「大衆性」とでもいいましょうか、それが大衆のなかに浸みこんで広がる過程において何が起こっているのか、また、その広がりの理由は何か、これらの問題について小さくない興味を持たせていただいています。

そして、この技術の大衆的広がりの問題は、文学的な分野の問題においても何か共通のものがあるのではないか、あるとすれば、そこから何かしらのヒントを得てみたい、このように思い始めました。

文学における大衆性、これを十分に追及した典型的な作家、その一人が松本清張さんでした。

昨年は、その清張さんの生誕100年を記念して、さまざまなイベントがなされていました。

つい最近も、その一部がテレビで再放送され、相変わらず、その人気が衰えていないことを目の当たりにしました。

なかでも、「ゼロの焦点」、「球形の荒野」の映画は抜群でした。いずれも、最初の作とは役者も監督も異なったリメイクものでしたが、そんなことは少しも気になりませんでした。

まず、私が驚いたのは、それが今日においてもなお衰えていない新鮮さを持っていることでした。かなり昔の映画やテレビドラマであっても、それが色あせずに、今でも十分に通用するところにすごさを感じました。

まず、ゼロの焦点では、新婚早々の夫がなぜ失踪したのか、それを妻が追いかけていくことから始まりますが、この謎の問題設定、そして、その謎解きを主人公の妻が行っていくことに大変なリアリズムを感じました。

妻がゆえに必死であり、その探索において「夫が死んでいるかもしれない」という悲壮感を漂わせるものですから、そこで視聴者をぐっと引き寄せてしまうシナリオはじつに見事でした。

また、後者の球形の荒野においては、次々に起こる殺人事件の犯人が主人公ではないかと思わせながら物語を進行させていくことにシナリオの妙があるように思いました。

真犯人は別にいるにもかかわらず、それを見せずに物語を展開していく手法を取っているので、もしかして、主人公が犯人ではないかと思わせることに成功していますので、当の視聴者はハラハラドキドキしてしまうのです。

これらの最初から読者や視聴者を引き付ける手法は見事としかいいようがありませんね(つづく)。

MR900406694