こうして,その松本清張の「大衆性」に関する「重要な何か」について考え始めていましたが、その実体が不明確なままでいろいろとあれこれ思いを巡らしていました。

そんなとき、辻井喬さんが「私の松本清張論」という本をつい最近出されたことを知り、これを早速アマゾンで注文し、読み始めました。

辻井さんといえば、学生時代に「彷徨の季節のなかで」という本を読んだことを思い出します。学園紛争のなかで複雑な思いを抱いた学生の思いをみごとに表した内容であったことを記憶しています。

この方は、文学者でありながら西武セゾングループを率いた実業家でもあったかたですから、その多才ぶりには注目させていただいておりました。

その彼が、この「松本清張論」を書くにあたり、すべての著作を読みなおし、さらに、清張の生い立ちから死ぬまでの諸々も詳しく調べたことで、そこから、いくつもの新たな発見をしたというのですから、これは小さくない意味を持った作業であったといえます。

こうなると、私などは足下にも及ばぬことになりますで、この専門家が、清張をどのように考えているかを知りたくて、それこそ夢中になって、この本を読ませていただきました。

そして、当然のことながら、あるいは、幸運にもといいましょうか、その大衆性に関する主題が詳しく論じられていて、「これだ!」と思わず膝を叩きました。

彼は、「大衆性」について、次のような分析を行っていました。

①エンターテイメントとしての話のおもしろさや展開のみでは平凡な大衆性

②伝統的であることによって深く浸透している感性としての大衆性

③正義感に訴える大衆性

このなかで、①は、テレビや映画に出てくる人物が持っている特徴であり、大衆は、このような人物を好みます。

③については、大岡越前や大石内蔵助の「正義」のようなものですから、これもすぐに理解できます。

しかし、作者の辻井さんがもっとも強調されていたのが、この②の「大衆性」でした。

これは、じっくり深く考え抜かないとなかなかわからない命題といえますが、これに、清張の場合は、「動機の深さ」と「社会性」、とくに「弱者や差別された方々」の側に立つ「視点」があるというのです。

この②の大衆性については、じっくり考察する必要があると思いますが、いかがでしょうか(つづく)。

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