作家辻井喬さんが指摘された「伝統的であることによって深く浸透している感性としての大衆性」とは、いったいどのようなことを意味すのでしょうか。

この場合、伝統的とは、文学的伝統のことであり、それは様々な文学者によって築いて来られたものでした。

それらの文学作品のなかに深く浸透している「感性としての大衆性」、これが著者自身によっても会計されるべき重要なテーマとされています。

この理解においては、まず、「動機の深い追求」がなされていることに清張の特徴があるというのです。

『ゼロの焦点』では、その動機のルーツには、立川基地で働いていた「パンパン」と呼ばれていた女性の問題がありました。また『球形の荒野』では、戦争を平和的に終結するための外交官の思いがありました。

物語の進展に伴って、この動機の存在がしだいに明らかになり、その過程で「深い追求」がなされていく、ここが非常におもしろい謎解きとなっているのだと思います。

同時に、もう一つの特徴は、清張の場合は、「社会性」、とくに「弱者や差別された方々」の側に立つ「視点」が貫かれていることも強調されています。

このテーマに関する典型例は、『砂の器』であり、不治の病の患者の問題が、その背景にあり、この差別され続けた弱者として取り上げられ、それを鋭く問うことで物語の本質が見えてくるように仕組まれています。

清張は、自分の経験を他人に置き換えて表現することに長けていますので、そこにもリアルな説明が成し遂げられます。

この動機の深い追求性、弱者の視点は、清張自身が幼いころから体験から築かれたものであり、その意味で、かれ独自の本質が、それによって明らかにされたことではないかと思われます。

そこで、これらの大衆性に関する特徴を学ぶとすれば、それは、マイクロバブルの技術においても同じことのように思われますので、その動機の深い追及性、弱者の視点が貫かれる必要性があるように思われます。

この文学と技術の視点に関する「同一性」については、どのように考えればよいのでしょうか?(つづく)

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