4. 大船渡の防潮堤

約10年前に、何度か大船渡を訪れたときに、しっかりした防潮堤を見学させていただいたことがありました。

その高さは4mほどはあったでしょうか。「これで、津波は大丈夫!」と胸を張っての説明を受けたことがあります。

この防波堤は、1960年に発生したチリ沖地震による津波で被害を受けたことで、その建設がなされました。

また、この地域では、その前に1933年3月3日においても地震による津波の被害を受け、多くの犠牲者を出したところでもありました。

さて、大船渡湾は、三陸沖から入り込んだ内湾であり、ここでは、カキやホタテの養殖業が盛んであり、そのカキ養殖改善のために訪れたところでした。

深くも浅くもなく、そして内湾に流入する川があり、カキの餌となるプランクトンが大量に発生する閉鎖海域であることから、これが優れた天然のカキ養殖場として形成されていったのです。

たしかに、立派なカキが生産され、ここでもマイクロバブル技術の適用がなされました。また、このカキは、赤崎地区の地名に因んで発売されていたようです。

しかし、今回の津波で、この赤崎地区のみなさんも含めて、そのほとんどすべてが流され、焼かれてしまったようで、心より冥福を祈らせていただきます。

また、この大船渡湾のカキも、そのほとんどが流されてしまい、壊滅的被害を受けました。

おそらく、この大船渡湾を含めて、東日本の海岸の水産養殖業も甚大な被害を受けたことことであり、その再生には大変な困難が伴うものと思われます。

防潮堤としては、宮古市田老地区の高さ10mが有名です。この田老防潮堤は、日本一の防潮堤といわれ、世界各国からも見学者が訪れるほどのものでした。

しかも、この防潮堤は、前後に二重になった部分もあり、これ以上の防御法はないと考えられていました。

しかし、今回の津波で、海に突き出した500mの部分が破壊され、そして、この10m防波堤部分が軽く乗りあげられたのでした。

その後の調査によれば、津波の高さは15mとも23mともいわれており、これでは「頼みの綱」の防潮堤も通用しなかったのです。

この事実は、これまでの防潮方式を根本的に考え直す必要があることを示唆しています。

同時に、根本的な見直しは、単に防潮堤のことのみではありません。

この地域に生活をする方々をどう守るか、生計をどう成り立たせるか、この防災と生活の両立をどう考えるか、このことが真正面から問われることになったのだと思います。

困難解決型、この指向と技術が必要となったのではないでしょうか。その意味をよりふかく考えていきたいと思います(つづく)。