武蔵は南信州の木曽路の温泉に現れるという「白い猿」のことを考えると無性に、その猿に会いたくなりました。

もともとせっかちの性格でしたから、そう思うと居ても立ってもいられなくなり、とうとう、その温泉までひとりやってきてしまったのです。

「この近くに、よい温泉があるそうですね。たしか、昼間から神様が猿になって現れると聞いていますが、そのような温泉があるのですか」

「お侍さん、その温泉なら、すぐ近くにありますよ。この坂道を下って、すぐ右手ですよ。この小川にそって歩いていけばわかりますよ」

足下には、きれいな水が豊富に流れている小川がありました。

「たしか、この小川沿いに下って、右に曲がればすぐにあるといっていた・・・・・」

目当ての温泉場は、意外と開けた平地にあり、その傍には大きな川もあり、その底には大きな石がいくつも転がっていた。

「こんな開けたところに猿がやってくるのか?」

そう思いながら、武蔵は、夕暮れに染まったアカネ雲を見ながら、温泉の木戸をくぐりました。

「今日は、猿が来るであろうか。来るときは、夜か、それとも朝か・・・・」

猿のことを気にしながら、露天の温泉のなかに足を踏み入れました。

「おやっ! これはなんであろうか? ふしぎな感覚だ!」

それは、武蔵が知っている温泉水の感じ方、もっと正確にいえば、足が覚えている温泉の感覚とはまったく違うものでした。

「これは、なんであろうか?」

踏み入れた温泉水のなかで、武蔵の足が驚いているようなふしぎな感覚が襲ってきたのでした。

「この温泉水は、足の中に浸み入るようだ。そして、浸み入った後がなんともいえず気持ちよい、これはいったいどうしたことか!」

武蔵は、これまで味わったことがない足の「ここちよさ」に驚きながら、静かに身体を沈めていきました。

「足がそうであれば、手も身体も、すべてがそうなるかもしれない」

武蔵の予測は見事にあたりました。足に覚えていた「ここちよさ」が、今度は温泉に浸かった全身から生まれてくるではありませんか。

身を首筋まで沈めた武蔵は思わず、こう呟いていました。

「これは、すごい温泉だ!このここちよさはなんであろうか?」

目をつぶり、うっとりとなったあまで、いつしか時間だけが静かに流れていきました。

「お侍さん、気持ちがよさそうですね。その様子だと、毎日、相当神経をすり減らす生活をなされてきましたね」

うかつにも武蔵は、あまりのここちよさで満たされていたために、無防備になっていまい、誰かに声をかけられても、しばらくは、返事ができない状態になっていました。

「おれとしたことが、うかつにも・・・・・」

「さすがの武蔵さんも、この温泉を前にしては、形無しですね。所詮、侍さんも人間ですから、無理からぬことですが、あなたも、この温泉には勝てなかったようですね」

「勝てなかった」、こういわれて武蔵は、むっとなり、目を覚ましました。「勝ち負け」という言葉には異常な反応を示す武蔵であり、それは武士としても武蔵野悲しい性でもありました。

「何をいうか、おれは侍だ、あの巌流島で小次郎と闘った宮本武蔵だ!温泉ごときで、丸裸になって気を許すことはない!」

「おもしろいことをいいますね。丸裸になって、うっとりしていたのは、先ほどまでのあなたではではないですか。嘘を言っちゃいけませんよ!」

こういわれて、武蔵は何も反論できなくなりました。

「それは、そうだが・・・・。うむ・・・」

「あなたも、侍の前に人間でしょう!この温泉に入ると、お侍さんも、お侍であることを忘れてしまい、一人の人間になってしまうのですよ。これは、天皇陛下や将軍様でも同じことですよ」

「それは、そうかもしれぬ」

「そうでしょう、あの小次郎を倒した武蔵も、この温泉のここちよさを認めた、これは、この温泉にとって大変重要なことになりますね。しかし、私にとっては、そんなことはどうでもよいことですが・・・」

「それにしても、この温泉は、どうしてこんなに気持ちがよいのですか? 小次郎のことよりも、そっちの方が気になるのですが、・・・」

「なるほど、人間武蔵野の本音が出てきましたね。そのヒントは、あなたの目の前にあります。それをよく見てください!」

夕暮れ時で少し見にくかったが、武蔵は、目の前の温泉水を眺めることにしました。すると、何か、白い粒のようなものがあるではありませんか。

「これは何ですか、なにか小さな白い粒のものがたくさん水中に浮かんでいますが・・・」

「気がつきましたか、それが、『ここちよさ』の素ですよ・・・」

「ここちよさの素、それは何ですか?」

武蔵は、それを詳しく聞こうと身を乗り出したところで目を覚ましていました。

「夢か!」

うかつにも、武蔵は温泉の中で居眠りをし、夢を見ていたのでした(つづく)。

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