昨夜は、コンビニ調達の夕食を済ませた後に、すぐに寝てしまいました。それから、1時、2時、と断続的に目を覚まし、眠い中、4時には起き出して、本日の講演の準備をしました。

例によって、その日の朝の準備となりましたが、このように強行軍のスケジュールではしかたありません。

仙台国際センターで開催の小さくないシンポジウムですので、十分に練ったシナリオを考えました。

まずは、大船渡湾をどう説明するか、横に短く縦に長い、そして、横幅の100分の1しかない、浅い海です。しかも、入り口付近でほぼ90度に折れ曲がっています。

地図や航空写真では味気ないし、どうしようかと思っていたら、28日の見学会に行ったときに開始にある岩手県水産技術センターで、ちょうどよいものを見つけました。

それは、子供用に作られたプールがあり、そこのは岩手県沿岸の海岸線が刻み込まれていました。

いわば立体模型のプールであり、その大船渡湾の部分を撮影し、それを用いて津波がどのように来たかを説明することにしました。

まずは、その湾口防波堤の説明から開始しました。ここには、海底から約45m、幅500~700m、奥行きの厚さ10mの強固な防波堤が建設されていました。

今回の津波は、この防波堤を簡単に破壊しました。その様子を撮影した東海新報社の録画を見せていただきました。それはそれは迫力があるもので、大津波の破壊力のすごさをまざまざと見せつけられました。

「ここを乗り越え、破壊し、津波は、この対岸に衝突した後に、約90度折れ曲がって、大船渡湾になだれ込みました」

子供用立体プールの模型を示しながら、さらに説明を加えました。

「この衝突後は、非常に複雑に流れていきました。これは、くねくね曲がった川の流れと考えてもよいと思います。

蛇行した川の流れは、複雑で、川の上部と下部では、互いにクロスした流れ方をします。上が左に流れれば、下は、その反対に動くのです。

ですから、大船渡湾も、湾口を乗り越えた津波は、鷹頭地区の岸壁に衝突した後に、約90度方向を変えて湾内に侵入してきました。

衝突は、反対に東側の諸島部に衝突し、その衝突で再度反転して流れる、いわば川の蛇行のような流れを呈しながら、湾奥へ進んだことが類推されます。

ここで、重要なことは、なぜ、あれほど、大船渡の西側の中心市街地が完全に破壊されたか、しかも、奥の方まで甚大な影響を受けたかという問題です」

「単に、津波が押し寄せ、湾奥に進むに従って波高を大きくしながら流れていったのではないのではないか」、被災地の様子を見ながら、そして現地のみなさんの当日の証言や海の状況を聞いて、このように思うようになり、その考察の結果を報告させていただきました。

おそらく、津波は、もっとも通りやすい深いところを進みながら、その周囲の浅い部分で水かさを増しながら、さらには、市街地を飲み事によってさらに水かさをまして、突き進み、最奥部付近では、前方と左右に分かれて広がっていったのだと思います。

これは、それまでの狭い領域から一気に拡散すし、そのことによってさらに流れやすくなり、家屋破壊していったのだと思います。

下の写真は、西側の市街地を乗り越え、川伝いに運ばれた船を映していますが、この付近の家屋の1階部分はほとんど破壊されていました。

それから、海の西側にあった中心市街地のほとんどが極度に破壊されていますが、ここには、津波の主流がもろに乗り上げ、破壊しつくしたのだと思います。この付近の建物は、ほとんど原形をとどめておらず、残ったのはコンクリート構造物が破壊されたものだけでした。

同様に、大船渡湾にあった水産用の筏はすべて破壊され、船もなくなってしまいました。4トンクラスの船でも、漁協単位で2隻しか新たに確保できないという深刻な状況になっています。

筏がない、船がない、そして電気すら通っていない、これが現在のおかれている状況であり、これらを少しでも早く解決することが切望されています。

「このままの状況が続けば、どんどん漁業を離れてしまう人が増えてしまいかねない」

この心配がますます深まっているような気がしました。

しかし、一方で、みなさんが力を合わせて何とか漁業を復興させようというエネルギーも生み出されています。

ここに、そのエネルギーとマイクロバブル技術が融合する根拠があり、その社会的経済的価値に関する意味を次に強調させていただきました(つづく)。

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