船頭に船を意識的にゆっくりと漕がせている間に、武蔵は刀で櫂を削って、小次郎自慢の「物干し竿」よりも長くて丈夫な武器を完成させました。

「この櫂であれば小次郎との真剣勝負できる、もしかしたら勝てるかも知れない、いや、絶対に勝てる!」

こう思えるようになって、武蔵は、身体の中から闘志が湧いてきたのを感じていました。

この闘志に基づく「一振り」が、小次郎との死闘の雌雄を決しました。武蔵の一撃に倒れた小次郎は、脳振とうを起こし、砂浜に倒れました。

その時武蔵は、小次郎側の報復を恐れて、すぐに乗ってきた船に飛び乗り、その場を去りました。

「たしかに、あの一撃には手ごたえがあった。あれで、小次郎は死んだはずだ! いや、死んだにちがいない」

その後の武蔵は、報復の追手から逃れるために、しばらく山奥に隠れていました。風の便りによれば、武蔵との決闘で小次郎は命を果てたということでした。

「そうか、あの小次郎は、もう、この世にいないのか!」

「それにしても、男の中の男、あっぱれな侍であった!」、こう思いながら、武蔵は、あの巌流島での死闘の一部始終を思い出していました。

「あの時、船の底に櫂を見つけることができなかったら、俺の負けだった」

やがて、武蔵の隠遁生活も数カ月が過ぎ、さらに数年の歳月が経っていきました。

世間とは移ろいやすいもの、80日も過ぎると、みな何もなかったように忘れてしまうのはいつの時代においても世の常でした。

いつのまにか、武蔵と小次郎の決闘のことをみな忘れてしまっていたのでした。

「そろそろ、世間も俺のことは忘れてしまったでのあろう。これからは、ゆっくりと自分のことを考え、自分に合った生き方を探していこう」

武蔵がこう振り返るのは、あれだけの日本一対決を行っても、そして世間が「日本一は武蔵である」ともてはやしても、何か、やりきれない気持ちを拭うことができなかったからでした。

山に籠り、滝に打たれて、そのやりきれない気持の奥底に潜むものを探そうとした武蔵でしたが、結局、いくら時を経ても、それを見出すことはできませんでした。

「俺の求めてきたものは何だったのか? 俺は、これから何をして生きていけばよいのか?」

こう自問しながら、また数年が過ぎていきました。もう、武蔵も初老を迎えるころになっていました。

山里での質素な暮らしは相変わらず同じで、近頃では村人たちとの交流も徐々に深まっていました。

しかし、ここに住む初老の武蔵は、只の名もない侍であり、村人たちは、その彼が、あの巌流島で小次郎と対決した武蔵であることなど、知る由もありませんでした。

「質素で無欲の侍が静かに書物を読みながら暮らしている」、これが、村人たちが抱いていた武蔵の印象でした。

「先生、近頃は、だいぶ老けてきましたね。温泉にでもいって養生でもなさったらどうですか。隣の与太郎が、とてもよい温泉を見つけてきたといっていました。すこし遠いのですが、どうでしょうか?」

「ほう、温泉ですか」

こういいながら、武蔵は、それ以上に関心を示すことはありませんでした。

「温泉ですよ、温泉。先生、相変わらず、しずかに過ごされていますね。今は、何もなされていないようだけど、先生は、きっと何か大変なことをした偉い方なのでしょう?」

「そんなことはありません」

「そうですか? 先生は、ときどき吃驚するような鋭い目つきをなされることがありますよ。俺は、その度に、この方は只者ではないと思うんですけど違いますか? それに、意外と、俺の感は当たるんですよ!先生は、なにかすごいことをした方でしょう?」

「只の侍だよ、名もない一介の武士ですよ」

「でも、先生、ただの侍でしたら、どうやって暮らしているのですか。だだ本を読んで書き物をしているだけで、どうして暮らしていけるのですか。先生、世の中は、働かないと、おまんまが食えないのですよ!」

「それは、その通りだが・・・・」

武蔵は、痛いところを突かれて、何もいえなくなっていました。

「先生、先生はどうやって生計を立てているですか? どこかに、先生のスポンサーがいるでしょう? そうでないと、先生が一人で何もせずに生活できるわけがない、村人は、みな、そういっていますよ」

「これはいかん、まずいことになった。話題を変えよう!」

武蔵は、さらりと、そして風のようにあざやかに話題をすり替えました。

「さきほどは、近くによい温泉があるとかいっていましたね!」

「あれっ、先生は温泉が好きなのですか? じつは、与太郎の話によれば、いい温泉があるそうですよ。白い泡がでる温泉ですよ」

「白い泡?」(つづく)

Goho-22