この季節は、いつも決まって学生たちと親密なやり取りを行います。学生たちは自ら研究した成果をまとめる必要があり、そのための相互の作業が生まれるからです。

ご周知のように、ヒトはそれぞれみな違いますので、学生も同じです。見た目は同じようですが、みな、それぞれ違うので、このやり取りを通じて、彼らの頭の中を深く覗くことができるようになります。

そして、それが理解できるようになると、より的確な指導ができるようになるのです。

この教育的指導においては、素直で物わかりがよいほど、手がかからないでよいのですが、それがかえって邪魔をする場合も稀にあります。

わかっているようで、じつはすこしもわかっていない、これは大人の世界でもよくあることで、それを正直に示す方とそうでない方の二通りがあります。

通常の大人の場合は、後者に属する方が多く、そのことを理解しないで対応していると、時として大変な目に会うことさえあります。

しかし、相手が大人ではなく学生の場合には、それを是正し、物事を科学的に考察することによってきちんと理解させることができます。

学生の方々は、この科学的考察を行うことを訓練しているはずですが、それがより深く、より本質的になされているかという問題においては、十分でない学生が少なくありません。

この種の学生においては、次のような返事をする特徴があります。

「できると思います」

「はい、そうします」

「やります」

など、こちらの問いかけに、すべて肯定的な返事がなされます。うっかり、これらの返事を信用して次の対応を待っていると、まったく違う結果、すなわち否定的結果しか生まれてこない場合が多いのです。

そんなはずはないだろうと思いながら、その押し問答を繰り返すのですが、そこから、問題の本質が見えてくることがあります。

たとえば、科学研究の成果に関する評価と問題点を考察する際に、それをほとんど理解できないとします。

前者については、その論文の結論に成果が書かれていますから、それを理解できるようにすればよいのですが、問題点については、そうはいきません。

そこで、その内容について討議を行います。これを通じて問題点を理解することができるように補う作業をするのですが、この過程で、その理解が進むことになります。

ところが、この理解がどの程度かが、次に問題になります。理解できましたという返事で済む場合もありますが、それができない場合は、それを文字として書かせて、それを読みながら理解させようとします。

それでも理解ができないのであれば、その文章の説明も行います。

「これで、理解できた。よいですね」

となるのですが、その次に、それが遂行されたかどうかを確かめることになります。その過程が、それらを踏めて自分の文書を書くときなのです。

そこで、自筆の文書を見せて、これでよいかと尋ねてきましたので、それを読ませていただきました。

「えぇっ!ほんとに、これでいいの?」

こう尋ねると、これでよいと堂々の返事がありました。

「どこかに、その理解において、重要な短絡が発生している。ここを突き止めなければならない。理解しているとは返事だけで、何も理解ができないから、このようになるのだ!」

それこそ、数十行がただの一行に変わってしまう「過程」が存在していることに気付きました。

これは、マイフェアレディーの主人公と同じ問題であり、これを「イライザ問題」と読んできましたが、ここにも根深い「文化的問題」があると思いました。

このイライザの言葉のなまりのように、根深い、なかなか直すことができない問題があることを理解し始めたのでした。

「ひょっとして、こんな風にしているのではないですか?」

こう尋ねてみましたが、私の予感は的中しました(つづく)。

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