綿密な討議を行い,自分が理解したことをメモに書く努力をし,それを見ながら書くまでは良いのですが,それがパソコンに直接打ち込む際には,ほとんど素通り状態になり,ほんのわずかしか文章として生かされない,ほとんどの場合が,このパターンになっていくのです.

「それで,いいのですか?」

こう尋ねてみると,不思議な顔をして「私は,それでよいと思いました」と必ず返事があり,さらに,それが誤りの内容であっても,「正しいと思って書きました」と回答してきます.

ここで,重要なことは,このような返答が非常に多く,そのことが珍しいことではない,すなわち,今の若者に共通ともいってよい特徴があることに注目する必要があります.

たとえば,10回尋ねたしても,必ず10回とも,このような返事になるのです.そこで,再度尋ねます.

「『なぜ,そのように尋ねるのですか?』と,なぜ尋ねようとはしないのですか?,自分のことではなく,相手が,どのように思っているかを考える必要があるのではないですか?」

こういわれてみると,初めて,その重要性を理解できるようになるのです.

相手が何を言っているのか,何を考えているのかを理解できない,自分のことだけをいうことで精一杯に終始するのです.

「自分がわからないときは,相手に尋ねて,自分の理解に役立てる,これで初めて会話が成り立つのですよ.『ここは,どのように考えるのですか』,『ここはよくわからないので,どうしたらよいのですか』と質問したらどうでしょうか?」

この押し問答を繰り返す中で,ようやく,相手に質問する,尋ねることが,自分のわからない問題を解決に導くことにつながることを理解し始めたようです.

「我流はいけません.経験主義も役に立ちません.科学的な考察方法を学ぶのであれば,それを具体的に身につけることが大切です.そのために,自分のノートに書くことが重要です」

こうして,ノートを開かせ,ノートに自分が考えたことを書くようにいいます.

「このノートが,自分なのです.自分で懸命に考えたことをすべて書きこむのです.ほら,見てください.あなたのノートには,それが書き込まれていません.正直にいえば,みすぼらしいノートのままです.自分の次に大切なのが,このノートであると思えるようになってください」

こういうと,「はい」という返事は良いのですが,実際には,それがなかなか実践できない,これが真実です.

長年,このような具合で,文章を書き,「科学的考察」を行ってきたのですから,それはなかなか改善されない,いわゆる「文化的問題」にまでなっている,これが本質であると思えるようになりました.

彼の思考方法,論述方法がようやく理解できるようになると,その教育的対処方法も適格にわかってくるのです.

そこで,私が採用した方法は,徹底して従来の研究の成果を学習させ,その到達点と問題点を明らかにすること,それらと自分のオリジナルの考察部分を明確にすること,それらを踏まえて,自分が,なぜ,その研究をしたのか目的を明らかのすること,そのために,その動機を考えること,これらを改めて考え,ノートに書き記すようにいいました(つづく).