昨夜はたっぷりと眠ることができたせいでしょうか、朝早く目が覚め、久しぶりに早朝散歩に出かけました。少し歩くと、すぐに商店街に出ました。ここは一方通行らしく、そのやや坂道になった通りを上っていきました。

早朝のせいか、ほとんどの店が閉められていました。わずかにドアが開いていたのは、夜通し開いていた飲み屋でしょうか、それらしき人を見かけることができましたが、それ以外は、人通りもなく無人の街となっていました。。

徐々に寂れて活気をなくしている「まち」並み、少ししゃれた通りにしたものの、時すでに遅しだったのでしょう。それに抗するだけの活力を取り戻すことはできずに、都市が力を無くしていく姿が、ここにありました。

人の流れとは、ある意味で恐ろしいもので、一旦変わり始めると、それを変えることは難しいのかもしれません。

ここは、戦後、すぐにアメリカ軍によって強制収容され、その出入り口に相当する「ゲート」を中心に都市形成がなされていきました。

基地から最も強い力をもったドルが流れ出て、飲み屋やレストランなどの商品店が並ぶようになりました。

このまちの構図は、戦後60数年が経過しても変わらず、その享受があり続けたことが、そこからの依存体質から抜け出すことを遅らせてしまい、それが今日の衰退の原因となってしまったようです。

都市の栄枯盛衰は、ある意味で戦いでもあり、かつての弱い村が、強大な都市を打ち負かすことは珍しくないことです。

このまちも、隣接する村に人の流れを奪われ、奪った方の村は「町」になり、さらに、まちとしてのインフラをそろえることによって発展を確実にしていったのでした。

この人の流れを決定的にしたのは、この衰退のO市と隣接のかつてのC村との二者間の力関係ではありませんでした。

その南にN市があり、ここが巨大に発展することで、そのエネルギーが、本島一の国道沿いにあふれ、その都市形成がなされて、このC村にまで及んだことが最も大きな理由でした。

もともと、平らで地下水が豊富な主要場所は、米軍に強制収容されていたのですから、その残ったところだけで中心市街地を形成させ、都市として持続的に発展させることは難しかったのでした。

もともと狭い島ですから、そこでの短期的な動きにますます影響を受けるようになっているのです。

そして、県民所得が最下位、若者の失業率(全体も含めて)が最高の県ですから、このようなまちの愛顧盛衰にも影響を受けやすいところではないかと思います。

さて、この寂れつつある通りを突き抜け、左に曲がって住宅街のなかを帰ることにしました。住宅街といっても、そのすべてはコンクリート製であり、木造の家は皆無に等しいところでした。

もともと山がなく、木もない沖縄ですから、そして米軍統治下での米軍住宅がモデルとなり、その建築方法が受けつつがれていったところです。

広い芝生のなかにポツンと高級住宅が建設されていた姿はあこがれでもあり、それをみならって住宅が建設されていきました。

しかし、基地の柵の外は、ぎっしりとすし詰めになった住宅ばかりであり、自分の家に庭を持つことなど夢のまた夢でしかありませんでした。

この住宅街を下りながら、このようなことを考えていたのですが、もしかしたら、これとよく似た光景がどこかにあるのではないかと思い始めました。

「どこであろうか?」

こう考えながら、しばらく歩いて、その答えがわかりました。

「ひょっとしたら、震災と大津波を受けた東日本のまちもこのようになるのではないだろうか?」

歩きながら、その意味をさらに深く考えるようになっていました(つづく)。