都市という規模のことを考えると、これは個人の力がなかなか及ばないスケールのことになります。
早朝散歩の帰りに考えたことは、戦後の焼け野原のなかで自力で、このように家を立て、そして生き抜いてきた人々が、さらに独力で、コンクリートの家を建てるまでになってきたこと、これと同じことが、あの震災と大津波で被災した地位で同じことが起こるのではないかと考えたことでした。
だれも、個人の家を保証するわけではなく、しかも低地には住めないわけですから、住むところを限定されて生きていかねばならないことにおいては、この沖縄の地とよく似ている部分が少なくありません。
金を出し惜しみ、早くもちゃっかりと消費税と、言いたいことだけはいう、どこかの政府には、このような生活再建の実際がよく理解できないことなのでしょうね。
本日はN市にいます。世界のウチナンチュー大会で約5000人が、この沖縄に来ていますので、ホテルもいっぱいでした。
知事を含めた県民を動かすパワーには素晴らしいものがあります。
さて、今朝の早朝散歩は、58号線沿いにあるホテルから久茂地付近を取って国際通りに向かいました。
この58号線沿いには非常に高いビルが立ち並び、その様相はまるで東京です。おそらく多くの資本が投入され、それらがこれらのビル建設に結果的に変換されていったのかとさえ思えるほどの林立です。
昔、この国道は、米軍統治下の頃においては飛行機の緊急発着にも使用できるようにと6車線で建設されていましたが、今や、その広い道路が沖縄経済の動脈線になっているようです。
これに、モノレールが加わり、南北へと伸びていくことで人と物流の拡大がなされていきました。
おそらく、祖国復帰後、数兆円以上の規模で国費が投入されてきたはずですが、それらは、コンクリートの巨大構造物に換えられることはあっても、産業と生活基盤づくりには結びつかなかったのではないでしょうか。
奇跡の1マイルといわれた有名な国際通りに近づいてきました。ここが沖縄観光のメインストリートです。私がいた74年当時とはすっかり変わってしまいましたが、この久茂地らのなだらかな坂道のスロープは同じです。
ここから、中心の三越デパートあたりまで歩いていきました。まだ早朝なので、一通りも少なく、左右の路肩にはゴミが多数出されたままでした。
途中で左に曲がり、久茂地川の方に向かいました。途中、公演があり、お年寄りのみなさんがゲートボールを楽しんでいましたが、ここを抜けると昔のままの狭い道路沿いに古い街並みがありました。
「変わったのは、国際通りの表装と58号線沿いの動脈部分だけか!普天間、嘉手納、キャンプシュワブ、これらは何も変わってはいない」
「時は流れ、あの日と同じ流れの岸」、これは、有名な「青葉城恋歌」の一説です。仙台出身の歌手の桑田佳祐さんは、東日本大震災支援コンサートの冒頭で、この歌を唄っておられました。
となると、「この沖縄では、どんな曲が、ふさわしいのか?」、久茂地川のほとりで、その答えを見出すことができました。
「私があなたにほれたのは、ちょうど十九の春でした。
いまさら離縁というならば、もとの十九にしておくれ」
沖縄民謡『十九の春』より(つづく)
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