「だいこくさま」といえば、「因幡の白ウサギ」の話が有名です。これに因んで、1905年に尋常小学校の唱歌として誕生したのが、「だいこくさま」でした。

これで、日本人のほとんどが、この歌を唄い、知れわたるようにもなりました。

この歌といえば、内田百閒をモデルにした黒澤明監督の映画「まあだだよ」を思い出します。彼は、1869年の生まれですから、この唱歌が出来上がったときは36歳でした。

彼は、夏目漱石の弟子で文学者でもあり、法政大学のドイツ語の先生でした。この職を辞し、文筆家として独り立ちしようとした矢先に戦争になり、戦後も赤貧の生活で苦労をする様子が映画で描かれていました。

この映画の主題は、師と弟子(卒業生)の交流にありますが、その映画の後半の部分で、突如として、主人公の百閒が、この「だいこくさま」の歌を弟子たちの前で唄い出します。

弟子たちを囲んでの酒の席ですから楽しく唄うのが常識的なことですが、そうではなく、その主人公は、悲しく、そして歌が進むにつれて声を大きくしながら、懸命に唄ったのです。

大きな袋を肩にかけ、 だいこくさまがきかかると、 ここに因幡のしろうさぎ、 皮をむかれて、赤はだか。

だいこくさまは、あわれがり、「きれいな水に身を洗い、蒲の穂綿に、くるまれ」と、 よくよく教えてやりました。

だいこくさまのいうとおり、 きれいな水に身を洗い、蒲の穂綿にくるまれば、 うさぎは もとのしろうさぎ。

こう唄いながら、次のフレーズで、映画の歌は終わりました。

「だいこくさまは、だれだろう」

黒澤明は、この内田百閒の主人公に「すごい形相」で唄わせ、この最後の言葉に意味を持たせようとしたのだと思います。

となると、この主人公は何をいいたかったのか、これが問題になります。

すでに、この歌詞にあるように、ずる賢いうさぎであっても、大国主命は、赤裸のうさぎが助かる方法を「よくよく教えて」あげたのです。

そこで、この赤裸のうさぎを治す方法を検討することにしましょう。ここでのキーワードは、「きれいな水」と「蒲の真綿」です。

じつは、この両者には重要な相関関係があります。蒲、あるいはヒメ蒲は、きれいな水のところしか生息しないのです。

かつてはたくさん生息し、随所に蒲の生息を観察することができたのですが、その「きれいな水域」の減少とともに蒲もなくなってしまったのです。

数年前に、マイクロバブル技術を用いて、ある上水場の貯水池の浄化を行ったことがあります。アオコが発生し、臭い匂いまでするようになり、それを改善することが目的でした。

当然のことながら、アオコが発生するまでに汚れた貯水池でしたので、蒲やヒメ蒲は生息しておらず、わずかに菱があるのみでした。

この菱とて、年々その生息範囲が狭まり、アオコガ池全体を君臨する状態に至っていたのです。

ここに、マイクロバブルを大量注入することで、まず、その菱の生息状況を回復し、巨大な菱の大群を復活させることを最初の目標にしました。

ところが、それまでの菱の生育群の2,3倍にはなったものの、それ以上にはなりませんでした。その意味で、私たちの予想とは異なる結果を生み出すことになりました。

これで、「マイクロバブルにも限界があったのか」、と思いましたが、じつはそうではありませんでした。

それは、菱の大群が育つ前に、水質浄化がより進んだために、別の植物群が出現したことが明らかになったからでした。

その新たな植物群が、「エビモ」であり、「オオカナダモ」、「トリゲモ」だったのです。おそらく、大量のマイクロバブルによる水質浄化がより速く進んだために、菱が繁茂するにふさわしい水質状況を通り越して、よりきれいな水になったからでした。

このよりきれいな水の製造に伴う新たな植生の登場は、その汚濁の歴史を遡ることに相当します。すなわち、時代を遡って、昔の水と植生に帰っていくことを意味します。

マイクロバブルは、水を浄化することによって、そこに生える植物の帰還を実現させたのです。

少し長くなりましたが、このトリゲモやオオカナダモの大群の傍に、じつは蒲の大群も生息していたのです。

となると、蒲が生息する「きれいな水とはなんだろう?」という疑問がわいてきます。

赤裸にされた因幡の白うさぎの身を洗った「きれいな水」とは何か、これが非常に重要な問題になります(つづく)。

Usagi-3