「きれいな水で身を洗いなさい、そして蒲の穂綿で、その身を包みなさい」

大国主命が、皮をむかれて赤裸のうさぎにいったことです。この「きれいな水」とは何か、これが問題です。

世の中には、「きれいな水」はたくさんあります。しかし、その「きれいさ」は、微妙に異なります。また、「何がきれいなのか?」、これについてもさまざまな指標があるはずです。

見た目がきれいなのか、すなわち透明度が高いのか、低いのか、有機物や汚濁物質をたくさん含んでいるのかどうか(BOD、CODの値が指標になっています)。

それとも、土砂や粘土を含んでいるのかどうか、さらには、植物や生物が育っているのかどうかなど、「きれいな水」といっても一概には判断できないのです。

となると、ここで、はたと困ってしまいますが、どこかに、もっと解明できるヒントがあるはずだと思ってより深く考えてみると、先に述べたように、それは「蒲」だったのです。

そこで、蒲の大群が生息できる「きれいな水」とは何か、これが重要になります。同じ「きれいな水」でも、蒲が生息することができない水もあります。

たとえば、「純水」という液体がありますが、これは何も含まれない「水」であり、ミネラル成分も存在しません。これで身を洗うとたしかにきれいにはなりますが、赤裸にされたうさぎの肌の回復は、おそらく実現できないでしょう。

単に汚れたものを含むのではない「きれいな水」、そして「蒲やヒメ蒲」が生息可能な水、それはいったい、どんな水なのでしょうか。

この問題のヒントが、先に述べた上水場の貯水池にあり、ここでは、蒲が生息し、オオカナダモ、それからトリゲモの大群が出現し、その原因となったのが、文字通りの「きれいな水」でした。

このきれいな水の貯水池では、それらの水生植物のみならず、魚も貝も、それこそ大量に発生し、まるで、魚や植物の天国ができたような様だったのです。

もちろん、このような水域では好気性の微生物が大量に発生し、それらが汚濁物を摂取することで水の浄化も行うようになり、有害な植物プランクトンの異常な発生も抑制されるようになります。

ですから、このように、動植物がすくすくと生息する「きれいな水」で、赤裸の肌を洗うと、それが治癒することに役立つのです。

多様な生物が大量に育つことによってきれいになった水こそ最高の水であり、だいこく様は、その水で身を洗いなさいと教えたのです。

私流にいえば、生物をすくすくと成長させる栄養が豊かな活性の水、それが、「きれいな水」の正体だということになります。

この水ですと、赤裸の充血した肌においては、ますます充血を促進させるのではなく、充血部分を分散させ、肌の表面を乾燥させる方向に作用するはずです。

また、蒲の穂綿で覆うことによって、肌と真綿の間の空気が温められ、これが血流促進にも寄与し、急激な感想を防ぎ、肌の回復を徐々に遂げながら、元の肌に戻す効果をもたらすことができるようになったのではないかと思われます。

以上のように考えますと、単にきれいな水で洗って、穂綿でくるまったという話ではなく、そこに深い意味と科学性があったことになるのではないでしょうか。

やや横道に反れてしまいましたが、ここで、内田百閒が唄った歌の問題に戻ることにしましょう(つづく)。


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