「だいこくさまはだれだろう?」

映画「まあだだよ」の主人公である内田百閒は、悲痛な表情を浮かべて声を振り絞って唄いました。

戦後の小さな小屋みたいな住処を経て、我が家を建てた部屋で弟子たちを囲んでのささやかな酒宴でのできごとでした。

彼の脳裏には、因幡の白ウサギをやさしく救っただいこくさまはだれなのか、そして、どこにいるのか、何をしているのか、さらに、白うさぎはだれなのかなど、さまざまな思いがあふれてきたのだと思います。

自分たちのことを含めて、なぜ、多くの人々が苦しい思いをしなければならないのか、なぜ、こんなに悩み多き時代なのか、楽しいはずの酒宴が、それらの感情の吐露の場に思わず変わってしまったのでした。

だいこくさまのはずが白うさぎになってしまっていた、おそらく、このような思いがこみ上げてきたのかもしれません。

映画では、その思いを観客たちに想像させるために、それこそ、執拗に、この歌を唄わせたのだと思います。

ここに、この映画が単に師弟の問題を越えた内容を有し、多くの人々の苦しみを主人公に代弁させた姿があったのだと思います。

ここに、この映画の普遍的な共通性があったのだと思います。学者でありながら、その中身は庶民と同じで、猫を愛し、酒を飲んで怒りを発し、これでよいのかと自問することが自然なのです。

さて、この問いかけは、数十年前の、しかも映画での出来事でしょうか。私は、そのように思いません。

「だいこくさまはだれだろう?」、この百閒の思いは、今に通じる、あるいは今こそ想起されるべきことのように思われます。

周知のように、東日本大震災の被災者は、ほとんどすべてを奪われてしまいました。白うさぎのようにずる賢くなくても、赤裸にされてしまいました。

科学技術の成果であったはずの、建築物、土木構造物が簡単に破壊され、さらに、その粋を集めたはずの原発が、途方もない事故と汚染を引き起こしました。

おそらく、何百万、何千万の人々が、「だいこくさまはだれだろう?」と、唄いたくなったのではないでしょうか。

「けれいな水」で身を洗い、「蒲の穂綿」で身を包むことの意味を教える必要があることを問いかけているのではないでしょうか?

「先生、これからは出雲の神様が応援してくれますよ!これは大きいですよ!」

車中で、何度もこういわれ、その意味を考えてみようと思いました。

「だいこくさまは、だれだろう?」

車は、出雲大社を後にして、宍道湖に向かっていました(つづく)。