武蔵は、白い泡で評判の温泉にようやくたどり着き、久しぶりにゆっくりとお湯に浸かっていました。敏感な肌の持ち主の武蔵にとっては、この温泉は、すぐに肌にしみこみ、それとともに格別のここちよさが出てくることをすぐに悟りました。

あまりのここちよさに、ついうとうとと眠ってしまった武蔵でしたが、その寝入り時に、いきなり声をかけられたので、さすがの武蔵も動転して、その声の主の白猿が目の前にいることを理解できなかったのでした。

「白い猿? どこにいるのだ!」

「まだ、夢を見ているのか、お前ほどの武芸者も、この温泉に入れば丸裸、形無しだね。さすれば、お前も人の子、ここちよくなって夢を見ることもあるわなぁ!風呂に入れば、武士も百姓も、みな同じということだな」

「な、なにをいうか!」

眠気ざまを襲われ、さすがの武蔵も機嫌を損ね、腹を立てながら、声の方に目をやりました。そこには、暗闇の中に、なにやら小さな白い物体が見えていました。

「お前は猿か!」

「猿だよ、それぐらい見ればわかるであろう!ところで、武蔵、よくここまで来たな!かねてより、一度、お前に会いたいと思っていたのだよ」

「俺は、そうは思っていない。お前のような白い猿は知らない。会うのは初めてだ!」

「何をわかりきったことをいっている。こちらも初めてよ。お前はわしのことを知るはずもない、だから、会いたいと思うことはない。あたりまえのことだ!そんなことをいうお前は、まだ夢から覚めていないのか!」

「な、なにをいうか、さ、猿めが!」

「あの小次郎と巌流島で雌雄を決した、かの有名な武蔵もたいしたことはないのぉー。この程度のことで腹を立てるのだから、お主はまだまだ修行が足りんということだな。それに、たしかに、おれは猿だ。しかし、ただの猿ではないぞ!」

夢から覚めた後も、完全に機先を制せられていた武蔵は、そのことにも気付いていませんでした。

さらに、最も気にしてきた小次郎のことをいわれて、さらに逆上した武蔵、完全に冷静さを失いつつありました。

「なに、小次郎だと、小次郎は巌流島で死んだ!もう、この世にはいない。それから、ただの猿でないというなら、お前はどんな猿か?」

「見ればわかるだろう。猿がしゃべれるか。よく聞け!お前は小次郎が死んだというが、それは嘘だ。小次郎は死んでいない!」

思わぬことを告げられて、武蔵はさらに我を失い始めていました。

「そ、そんなばかな、俺が真上から小次郎の脳天に一撃を加えた!まちがいない、俺が小次郎を倒した」

「そこまではまちがいない、たしかにお前は、みごとに小次郎を倒した。しかし、それは倒しただけだったのではないのか? それでは改めて尋ねるが、お前は、小次郎が死んだのを見たのか?」

「たしかに、小次郎を倒しはしたが、死を見とどけたわけではない。うかつだった!」

虚を突かれ、武蔵は動揺し、すぐに浮かんできたのは、あの巌流島の決闘の場面でした。

「あのとき、二人はにらみ合いながら波打ち際まで進んだ。寄せ来る潮騒の音しか聞こえず静かであった。

その波打ち際でにらみ合ったまま、どのくらいの時間がたったのであろうか。俺には、とても長く感じられ、気が遠くなりかけていた。

そのとき、小次郎の足が砂を強く踏みしめる音がした。いよいよ来るな、小次郎。その気配からして、ツバメ返しにちがいない!

その音を聞いて、俺は、ほんの一瞬だけ待つことにした。小次郎との間合いがわずかに遠かったのだ!

この間合いだと、小次郎は、俺に向かって斜め上に飛び上がりながらツバメ返しで切ってくる!

おれは、それを一瞬待って、この場でほんのわずかだけ後ろに高く飛び上がり、小次郎の脳天を狙う。これで俺は勝てる!」

武蔵の咄嗟の判断は正しく、すぐれた動体視力で迫ってきた小次郎の刃をかわすとともに反撃をすることができたのでした。

斜めに飛んだ砂浜の柔らかさが、小次郎の飛ぶ距離を1、2cm短くし、武蔵はほぼ真上に飛び上がったので、その砂地の柔らかさが災いせず、より高く飛ぶことができたのでした。

勝負の分かれ目は、この咄嗟の判断と砂浜の「柔らかさ」の差によるものでした。

「危うかった。あれは、いつもの小次郎のツバメ返しではなかった。運よく、小次郎を倒すことができた。たしかに、あの一撃を加え、小次郎を倒した」

「そうであろうが、お前は、たしかに小次郎を倒した。そかし、その時、小次郎が死んだかどうかは確かめていない。

お前は、それを確かめずに一目散に逃げるしかなかった。そうであろう、武蔵!。俺は、そのことをお前にいいたかったのだ!」

武蔵は、第二打を放つことができませんでした。すでに、小次郎側の侍たちが走り寄り、すぐそこまで迫ってきていたからでした。

「俺は逃げるしかなかった。小次郎は、あの一撃で死んだはずだ。それが死んでいない?、そんなはずはない!」(つづく)

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