秋の陸奥路を北上し、大船渡を通過して、南三陸、それから釜石へと向かいました。木々が紅く色づき、時々見えてくる海とでよいコントラストを見せていました。

折しも、大船渡を抜けたあたりから早くも夕闇が迫ってきて、釜石のシンボルである巨大観音さまも宵闇にやや霞んで見えていました。

この釜石には新日鉄があり、そのラグビーチームは一世を風靡しました。また、海沿いには岩手県の水産技術センターがあり、ここも1階部分が被害を受けていました。

それから、この地は、作家の井上ひさしさんとお母さんが住んでおられた土地でもあります。

最近、おもしろくて一気に読んだ『新遠野物語』では、釜石という地名がよく出てきます。

今では、この遠野は岩手県のボランティアの拠点として有名であり、井上さんが生きておられれば、この活動ぶりを取材され、小説の中に取り入れられたはずです。

釜石は、漁業と製鉄で栄えた港町、昔から人の出入りが多く、それだけ活気に満ちたところではないかと想像し、本日の訪問企業を目指しました。

すっかり暗くなって、その企業の工場にたどり着きました。笑顔で会長さんに迎えられ、応接室に通されました。

本日は、土曜日で会社は休み、わざわざ私どものために会社に出てきていただいただけに、この会長さんのマイクロバブルに関する関心は並々ならぬものでした。

私としても、わざわざ、暗くなってまでも押しかけたかいがあったというところでしょうか、水産加工の分野でマイクロバブル技術をどう駆使するかで、それこそ多面的な議論がなされ、時間があっという間に過ぎていきました。

その途中で、この会長さんの本社と自宅が、釜石湾の海の近くにあり、完全にそれらが流されてしまったこと、大津波の日にはかろうじて逃げることができて助かったこと、そして現在は、家族のみなさんも含めて仮設住宅住まいであることなどを知り、胸が痛みました。

ここにも、甚大な被災のなかで、そこから元気を振り絞って立ち上がろうとしている方々がいることを知り、私も身を引き締めさせていただきました。

この会社では、魚の身以外のところを有効活用し、それを技術の力で最高度に生かすことに成功しており、その技術の核心についても披露していただきました。

「一物全体利用」、これがこの会社の事業モットーとなっていました。

「そうか、こうして直に話をしてみると、いろいろなところにマイクロバブル技術が使えそうだ!」

互いに、このように思いながらの話し合いですから、それがいつのまにか盛り上がってしまいます。

場所を変えてからは、別の会社の社長さんも加わりました。この方は、長い間、フランスで修業をされていたそうです。

今回の大震災の後に、家族の支援を行うために帰国されてきたようで、現在は、食品関係の新商品開発を目指しているようでした。

そこで、これらの方々を交えて、それから2時間半、ここでも途切れることがなくいろいろな話が出て、それに関係したマイクロバブルの開発技術について話も盛り上がりました。

こういうときには、互いによいところをどう伸ばすかが重要であり、そこにマイクロバブルの真骨頂がありますから、そこに絞って紹介すると聞き手もぐっと関心を寄せてくるのです。

こうして、ああでもない、こうでもない、さらには、「こんなことができるでは」というと盛り上がるばかりでした。

そして、夜も遅くなったので、「明日は、朝早いので、この辺で大船渡の方に帰らせていただきます」といって、釜石を離れました。

帰りの車中では、島根県の企業の方から電話があり、先日の松江での講演の評判がよく、再度講演に来ていただけないかという依頼がありました。

「そうですか、それはよかったですね。その後、出雲大社からいただいた鈴を鞄につけています。

この鈴がいつも心地よく鳴っていますが、これを聞くたびに何かよいことが起こり始めています。これも出雲の神様のおかげしょうかね」

こういうと、電話の相手の方はとても喜ばれていました。

「そうですよ、先生、出雲の神様が応援していますよ!」

車は、空いた道を大船渡に向けてまっしぐらに飛ばしていました(つづく)。

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