「マイクロバブル人」に続いて、シリーズもの第2弾となったのが「夢シリーズ」でした。
「夢」とは、なかなか都合のよいもので、実現できない世界のことでも夢として描くことができます。
それから、現実に起きてしまっていることでも、それを近未来に起きることだとやや時間をずらして「夢」にして記述することも可能です。
すなわち、その物語を夢に設定することによって、書きにくいことを書いてしまうという離れ業を発揮することもできるのです。
そんなわけで、この夢シリーズは、ぜひとも継続していきたいと思っています。「松島の夢」、「ハスの夢」、これらは東北や南国の地に想いを馳せたものでした。
また、いまだ継続中の「キリキリの夢」は、南国の沖縄から開始されて、その舞台は、キリキリの本国である東北へと移り、どういうわけか、武蔵と小次郎の話に至ってしまいました。
この延々と続くシリーズは、ある作家との頭の中での対話をしながらですから、それこそ、話の筋がいろいろな方角に飛んでしまいます。おかげで、その作品を読んでは考え、考えては書くのですから、それこそどこまでも続いていってしまいます。
読者のみなさまにおかれましては、いいかげんに早く終われと思っておられる方も少なくないと推測していますが、これがなかなか終われないので、正直、どうしようかと思っているところでもあります。
夢といえば、かの有名な寅さんも、じつに夢多い人でした。ほとんど毎回、「ああ、夢だったか!」と現実に目覚めることが起こります。
「夢多き人」だからこそ、それも可能であり、その意味では、マイクロバブルに関する夢も同様で、少なくありません。それゆえ、夢多きマイクロバブルの物語も展開できるのではないかと思っています。
それから、マイクロバブルは「未来材料」であり、マイクロバブル技術は「未来技術」ともいえます。未来に向かってほぼ無限に広がって使用できる材料であり、技術であるという重要な特徴を有しているのです。
ですから、まさにドラえもんではありませんが、のび太君が、「こんなことできたらいいな!」と思うようなことまで実現してしまう未来型の技術なのです。
最近、未来型人間の「緑子」に接して、そのドラえもんの歌に巡り合いました。それには、次のような歌詞があります。
「奇妙奇天烈、摩訶不思議、奇想天外、四捨五入、出前迅速、落書無用」、幼子が、このような、それこそ奇妙奇天烈な言葉を知るわけがないと思いながら、四捨五入であいまいになり、出前迅速となりますと、もうその意味がわからなくなります。
しかし、今となっては、「奇妙奇天烈、摩訶不思議、奇想天外」の発想がとても大切なのです。奇妙奇天烈なのはドラえもんだけでなく、水木しげるも、スティーブ・ジョブズも同じです。
その彼らが、妖怪を操り、あっと驚くような新商品を創造したのであり、そのアイデアの最初は、奇妙奇天烈で、奇想天外、摩訶不思議であったはずです。
これらの概念と夢は、とくに未来の夢は互いに結びつきやすく、奇妙奇天烈で、奇想天外な直観こそ、世の中を真にリードしてきたのではないでしょうか。
その意味で、奇想天外な夢を、これからも決してひるまずに語っていくことが大切だと思っているのは私だけでしょうか。
「そーれがどうした、ぼくドラえもん!」
そーれがどうした、ぼくマイクロバブル!」(つづく)
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