「鋭く、大きな直感」を働かせて、困難をブレイクスルーしていく、これを昇華していくには、なによりも実践が必要になります。

それが、社会的意味を有するのであれば、その現実のなかに飛び込んで修業をすることが不可欠になります。

かつての若かりし頃の私も、ご多分にもれず、それができていませんでした。川の研究をしているといいながら、それは実験室で行い、現場に行くことはほとんどない、これが基本的スタイルでした。

今から思えば、脆弱そのものですが、それでよいと思う部分があって、日夜、それに打ち込んでいたのですから、困ったものです。

このスタイルに決定的な警鐘を鳴らしたのが、木下良作先生でした。先生によって、川の現場に案内され、しかも、お一人で、それに打ち込み、挑んでいく姿に心を動かされました。

先生にとっては、現場の川そのものが実験場だったのです。

この実験室と現場実験の違いは、自ずと、そのスケールの桁違いの相異をもたらしました。これによって、実験室のなかに閉じこもっている自らの狭小さを、いやというほど自覚させられたのでした。

しかし、そう思うようになっても、それをなかなか変えられない、これがしばらく続きました。一度殻ができあがり、そこで、そこそこのものができあがると、それを自ら壊すことができずに、悶々と苦しむ日々が続いたのです。

この過程は、先に示した新原理論において、博識は、それなりに徐々に進むが、直観(intuition)には至らない段階といえます。

しかも、この「鋭く、大きな直観」を目の前にしながら、それが大きすぎると、足がすくんで動けなくなるのです。

私は、このギャップをどう埋めるかでもがき、木下先生に手紙をたくさん書きました。私の手紙が届くと、すぐに先生から返事がきます。

それはとてもうれしいことでしたが、その返事を私が書いて、さらに、それを続けるということがなかなかできず、多くの場合、私の方で、それを中断してしまうことが起こりました。

要するに、先生のスケールに着いていけずに、跳ね返されるという思いが湧いてきて、続けることができなくなっていたのです。

これも、今となっては明確なことですが、考えていることも、行動していることにおいても、桁違いのスケールの違いがあるわけですから、それを修正しない限り、そのギャップは大きくなるばかりで、埋め戻すことなど、とてもできなかったのです。

この修正の転機は、それからかなりの時間が過ぎてやってきました。申し訳ないことに、先生の心配も知らず、私は、マイクロバブルへの道に分け入った時でした。

広島カキ養殖に、初めてマイクロバブル技術を適用し、そのカキの反応を見て、ここには「重要な何かあるのではないか」、そう直観できたからでした。

しかし、この直観は、鋭くも、大きくもありませんでした。それこそ、「何かがあるのではないか」という小さな疑問でしかありませんでした。

それで、とにかく足しげく広島湾に通ったのですが、これが幸いでした。

このとき、木下先生が、「ちょっと長野の川までバイクで行ってくる、北海道の天塩川まで車で行ってくる」と現場に向かう姿を思い浮かべ、私も出掛けていくようにしていました。

この現場では、不慣れなこともあって、大変なことがいくつもありました。

カキ筏の上で、身動きできず、怖くて座り込んだこともそのひとつでした。炎天下で、何時間も観測をしなければならない、これに耐えることも容易ではありませんでした。

いくつも失敗を繰り返しました。

しかし、それを続行し、ますます乗り気になっていった理由は、カキがマイクロバブルに「たしかな反応」を示したことにありました。

この観察における直感が、徐々に膨らんで、ますます、ここには「重要な何かがある」という思いを強めることができました(つづく)。

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