デイゴの花咲くころに

深紅の色鮮やかなデイゴの花咲く頃に、沖縄の琉球大学から本校に赴任して36年が経過しました。

振り返れば、月日の経つのは速く、この春で定年を迎えることになりました。

この間、みなさまには、たくさんの支援とご協力をいただき、お世話になりましたことを深く感謝申し上げます。

さて、私が赴任した1976年の本校は創立3年目でした。

専門棟ができたばかりで、道はぬかるんでいました。実験室も空っぽで、教育も研究も、すべてが「新しく始まる」という息吹に満ち溢れていました。

実験室づくりと足下の泉

最初に取り組んだのが、水理実験室およびと衛生工学実験づくりでした。

これらは、高専における教育と研究の水準と将来を決めるものですから、いろいろ考え、京都大学防災研究所の水理実験室を参考にしました。

後に、その中の一つである「開水路」が有名になり、学会のハンドブックにも掲載されることになりました。この水路は約30年経過しても立派なままで特別の、いわば「愛用の水路」となりました。

この水路が完成して2年目、二期生のH君と夜中に実験をしている時でした。

「わぁー、先生、これ何ですか?」という彼の驚きの声に引きずられて、思わず、その水路の中を覗き込みました。

そこには、彼が流しこんだコンデンスミルクや染料で描かれた「奇妙奇天烈、摩訶不思議」な模様が出現していました。二人して、この魅力的な模様を朝まで見惚れていました。

その後、この現象は、乱流における「秩序構造」という当時の世界最先端の現象究明に関係しており、この追求が私を始め、S先生、W先生の学位論文の取得に深く結びつくことになりました。

H君と共に行った実験が3人の学位論文のテーマになるまでに発展していったのですから、足元には浅くない「泉」があったように思いました。

そこを掘り続けることが、いかに大切であるかをよく理解することになり、自前の教育研究を行うことが水理研究室の基本的スタイルとなっていきました。

しかし、当時の学会では、高専からの発表は皆無に近く、私たちの成果もなかなか認知されませんでした。もちろん、それは私たちの未熟さとも深く関係していました。

そこで、高専から外に向かって積極的な交流を行うことにしました。

①大学での定期的な研究会の開催(2大学1高専で構成、毎週13時~21時過ぎまで、15年継続)

②西日本地区の大学高専の先生方による研究会の開催(年4回、私は事務局長を10年務めた)

③土木学会以外の他の分野の学会への積極的参加

これらはいろいろと大変でしたが、そのなかで「高専だからできない」、「高専だから、この程度でよい」などと思うことが「言い訳に過ぎない」ことを理解し、同時に「高専の中だけに閉じこもっていては何もできない」ことにも気付きました。

ユリウス・カエサルほどではありませんが、「ルビコン川を渡る」ことが必要でした。

(つづく)

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