大学時代からの友人のM君が、先日の最終講義の際に、わざわざ駆けつけてくださり、挨拶をしていただきました。

彼の了解をいただきましたので、その「退官記念に寄せて」の一文を紹介し、せっかくですから、その考察を若干させていただくことにしました。

以下、彼の原文は、赤字で示します。

御紹介いただきました、山口大学工学部土木工学科 昭和43(1968年入学、昭和47(1972)年卒業の、O教授と同級生のMでございます。現在は、広島の建設コンサルタント会社に勤務しております。

大学を卒業してこの3月で丁度40年、お互い頭の髪も薄くなったり白くなったりしましたが、今日までなんとか生き延びて、日本で一番有名な高専教授あるO先生の最終講義を聞くことが出来、同志の一人としてお祝いを述べる場に立てることを大変光栄に思う次第であります。

今から44年前の4月、山口大学に入学した時に初めて会ったO君の印象は「若いのに、やけに腰のすわった男がいるな」といったところでした。

時代は大学が大変熱い、あるいは荒れた、いわゆる学園紛争の時代にあり、昭和44(1969)年の東京大学の入試は中止となり、その年の4月には山口大学の本部も学生により封鎖されるといった時代でした。

そうした中で私達は、山口で済ますべき教養部の試験を工学部のある宇部に移してから受け、試験結果と無関係に全員2年生に進級ということになりました。団塊時代の一員である私達は、そういう時代に学生時代・青春時代を送りました。

O君や私達はその頃、「日本の技術者」という本を何人かで輪読して、技術者とはいかにあるべきかを口角泡を飛ばし議論していたのが懐かしく思い出されます。

なかなか、書きなれた文章です。2時間あまりですべてを書きあげたそうですが、よい「出だし」になっています。

大学時代の同級生ですから、そこから彼の記憶も始まっています。ここで、やや印象深いのは、次の3つの指摘です。

第1は、「日本で一番有名な高専教授」という喜んでいいのかどうか、彼特有のアイロニーが含まれているのかどうか、その真意はよくわかりませんが、この冠言葉が、その後も何度も繰り返されますので、少々気になりました。

第2は、私の学生時代の最初の印象について初めて語っていただいたことです。私は、彼のいうような「腰がすわった男」ではありませんでした。ただ、私は、腰の病気で高校を1年余分に行きましたので、その経験が、そのような印象を与える結果になったのかもしれません。

逆に、いつも賑やかで大人びていたM君やS君に対して、私自身はなんと子供じみていたかと、気おくれをするほどでした。

彼も指摘しているように、私どもの大学時代は、一部の学生によって大学本部の封鎖がなされ、講義が開かれないという状況になっていきました。

毎日、教室には行くけれど、教員は来ないという状態になり、集まった学生と議論を行う、このような日々を過ごしていました。

しかし、それも、日が進むにつれて、集まって来る学生の数も減り、最後には、一人、二人しか来ないという状態になりました。

こうなるとアルバイトをするか、遊ぶかのいずれかになっていき、そのいずれも経験することができました。前者においては、ビル建設の工事現場での力仕事があり、一日8時間働いて1000円をいただくことができてうれしかったことを記憶しています。

後者では、剣道部の先輩にパチンコの名手がおり、その必勝法を教えていただきました。しかし、私には、その必勝法が通じず、負けてしまうことが多かったようでした。

こうして、M君も指摘しているように、全員が2年生に進級し、山口県宇部市の工学部で専門の講義を受けることになりました。

なかには、この全員進級の恩恵を痛感した学生もいて、進級後の教室は、こんな同級生もいたのかと思うほどで、とても賑やかでした。

しかし、当時の私は、この新たに始まった専門の講義に強い興味を持つことができませんでした。

社会のことをもっと深く勉強しなければならないと思うようになった「開かれない授業」のせいだったのでしょうか、もっと「重要な何か」があるのではないかと思いながら、まごまごしていたのが2年生のころでした。

このような思いを抱いたのは、私だけではありませんでした。講義が開かれないなかで、何をなすべきか、何を学ぶのか、などの議論を重ねてきた私たちでしたので、専門課程に進んでも、その議論を発展させることを求めていたのだと思います。

その議論のなかにM君やY君がいました。後者のY君は、この面では私よりも早熟で、なにかと親身になって教えてくれました。とくに、彼は本が好きで、自分が読んで気に入った本を私に読めといってくれました。

このY君のおかげで、私はしだいに本好きになり、同時に議論好きにもなっていきました。そして3年生の頃でしょうか、星野芳郎著の「日本の技術者」という分厚い本に出会い、ここに大切なことが書かれていると思いました。これが、第3の指摘です。

そこで、この本を徹底的に学習しようと思い、Y君との勉強会を始めました。これが、そのうちに発展し、数名となり、やがて数十名と拡大していくことになりました。もちろん、M君も、そのなかの一員でした。

そうか、みな、同じ思いだったのか、この思いもよらない広がりによって、私たちは、物事の不足分は自前で勉強することが大切であることを習得するようになりました(つづく)。

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