M君のメッセージの続きです(赤字)。

3年生になり秋の大学祭を担当する時季がきましたが、荒れた大学で従来のような組織だった実行委員会の立ち上げは困難でした。

このとき、実行委員長として立ち上がったのがO君でした。

何人かの委員がいましたが、一心同体でO君を支えたのが私と、後に数年前、Y大学の工学部長を務め、その後早期退職して昨年特許庁に新しい活動の場を求めた電気工学科の1年後輩のM君でした。

1ヵ月以上ほとんど学校にも行かず、秋の寒空の下夜通し木造校舎の裏で焚き火を囲んで議論して、大学祭の構想を練り具体的準備を進めました。

そんな3人が後に、ひとりは日本一有名な高専教授に、もうひとりはY大学工学部長、残るひとりも建設コンサルタントの役員を務めている現状から、大学教育の本質とは何なのかと考えることがあります。

結局その年の大学祭は、土木の学生の支援・参加が多くあり、立派にやり遂げることが出来ました。この時から私は、O君、M君に、強い同志的連帯感を持ちました。そして、いつも2つの詩(Poem)を思い浮かべる様になりました。

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ここにも書かれているように、この焚き火のシーンは、私にとっても同じく、とても印象深いものでした。

寒い中、焚き火で暖を取らないと座っておれない状態のなかで、3人が夜通し話をしたことを思い出します。

火に入れる薪がなくなると、どこからか、彼がそれを探してきました。

「よくまあ、そんなにたくさん、薪を探してきたなぁー」

「こんな薪ぐらい、どこにでもあるよ、周りは木ばっかりじゃけー」

私には、その薪をどこから調達してきたかがすぐにわかりましたが、あまり詮索はしませんでした。

「これで3人とも凍えなくてすむ。ありがたい」

この思いの方が先でした。1年後輩のM君は、おとなしく、火鉢に手をかざしていましたが、そのとき、名言を残しました。今でも、その言葉が脳裏に残っています。

「大切なものは目に見えない」

今振り返りますと、20歳そこそこですから、「目に見える」ものをほしがる年頃でありながら、その反対に、なにか大きな価値があるのではないかというものに対しても、手を思いきり広げてつかもうとする自由もありました。

「そうか、私たちは、目には見えない重要な何かをつかもうとして、来る日も来る日も、講義には出ずに、その準備をしているのか。そうにちがいない」

このように思ったようでした。結局、M君のおかげで薪が集まり、朝まで語り合うことができ、3人で共に分かち合う思い出ができました。

彼も「大学教育の本質は何だったのか」と指摘していますが、技術については教えられながら、一方で、人間としての力については、自らが修練する場であったような気がします。

私たちには、それをつかみとる自由があり、機会も与えられていたのだと思います。

この3人の心温まる場があったせいでしょうか、それとも、「人は、そう簡単には動かない」、「人を動かすには自らが、その何倍も動かなければならない」という重要な真理を学んだからでしょうか、この祭りには、徐々に人が集まるようになり、小さくない成功を修めることができました。

なにせ、いつもの倍以上の日程で、この大学祭を敢行し、「なぜ、こんなに長くしたのか?」とある教授から皮肉交じりの疑問を投げかけられたこともありました。

きっと、講義にも出ずに、3人ともあれやこれやと知恵を巡らした結果だったからでしょうね。

景気よく出した無料の酒樽2個、M君は、ほんとうに美味しそうに飲んでいました。それから、詩吟部のN君が唄った「炭鉱節」、これで200人以上が踊りまくりました。

今でも蘇ってくるみんなの整然と踊る姿は壮観なものでした。

記念講演には、九州大学のG先生(後に学長になりました偉い先生)の自宅に直接伺い、それを依頼したところ、その先生はすごく感激されて、講演を快く引き受けてくださいました。

もう一人は、東京工業大学の教授のD先生で、講演会場の宇部市渡邊翁記念館に案内したときには、その大きさに吃驚(びっくり)されていたことを思い出します。

私は、市民のみなさんにも来ていただこうと思って、G先生とD先生が来られますよと、ハンドマイクを持って街中をよくアナウンスして周りました。

今思えば、こんなドエライ先生を自分たちで選んで、交渉し、実際に来てもらうのですから、学生の力もあながち捨てたものではありませんでした。

それから、このどでかい渡邊翁記念館に広いフロアーがあり、ここがダンスパーティーの会場になりました。こちらの方はみな好きらしく、会場は満員で、もちろん大黒字となりました。

つづく

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