4月11日の午後から、国東下村塾の開講式が行われました。

この日は、オープンネット建築士さんたちが、「屋外にリビングがある家」に集まって勉強会を開くという話があり、これに合わせて私も講演を2時間行う予定でしたので、このイベントと開講式を一緒に行うことにしました。

「ものはついで」とは、このようなことをいうのでしょうか。あまり形式ばらずに、とにかく、できるところから始める、これが吉田松陰のやり方とよく似た方法です。

「松下村塾」も、伯父さんから受け継いだもので、松陰は、その三代目でした。このとき、彼は、ペリーの黒船に乗り込み、密航を図ろうとして、それができず、密航の罪で萩藩に送還され、野山獄から出てきたところでした。

そして、彼の家族が相談し、せっかくだからと家族向けに講義をしてもうらおうということになったそうです。

松陰思いの家族が、講義をしてくださいと頼み、家族思いの松陰が、それに応えるということになり、松下村塾が開始されることになったのです。

これは、家族の中のことですから、すぐに決められ、すぐに実行できることでした。このとき、松陰は、獄中で年に500冊のペースで本を読んでいましたので、講義をする内容において事欠くことはありませんでした。

もともと、11歳のときに殿様の前で堂々と講義をしたほどの松陰であり、藩校の秀才で講師にもなっていたのですから、家族相手に講義を行うことは朝飯前の事だったと思います。

さて、家族で、この松下村塾を開始させたことをよく考えてみましょう。今日、息子が親や兄弟に向かって講義をすることがあるでしょうか。また、親が息子に講義をしてくださいと頼むでしょうか。

かなり知的レベルが高くて、家族が息子のことを思い、息子が家族のことを思うことがなければ、このような塾の開講が実現されることはありません。

松陰の講義は、まず家族内で評判になり、その評判が親戚に伝わり、今度は、親戚が講義に参加するようになりました。

この時点で「家族内」から「家族外」へと広がっていくことになり、じつは、これが画期的な出来事だったのです。

この経緯と同じく、国東下村塾では、家族と建築士のみなさんを対象にして記念講演がなされました。

1時間ごとに2回のつもりで用意していましが、丁寧に話すことになったので、用意した分の10分の1程度で終ってしまいました。

今考えると、1日4時間やったとしても、2日は必要なボリュームだったようで、どの程度のボリュームで話をすればよいかをやや理解することができました。

この一期生を前にしての講演と質疑で3時間、その後は、マイクロバブル風呂の見学と入浴体験、参加された全員が入りましたので、それこそマイクロバブル風呂の話の花がさきました。

途中、建築士の方々は、専門的に参考になる部分がいくつもあったようで、家の内外を見学される方もおられました。

また、この様子を地方紙の記者さんが取材されていました。この新聞紙は自治体関係者によく読まれているようで、この新聞記事がでると、自治体のトップが動くというジンクスがあるようですので、はたして今度はどうなるでしょうか?

こうして開講式の一日が無事終わり、みなさん喜んで帰られたようでした。

そして、「国東下村塾」の最初の実体が生まれたことになりました。これをどう育てていくか、春が来た楽しみに上乗せができるではないかと思っています。

「春風や 闘志をいだきて 丘に立つ」 高浜虚子

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