先日、この記事をほぼ書き終えて、「ほっ」と一安心をしていたら、いつの間にか、パソコンの画面が凍結して、少しも動かないようになりました。

これまでにも、このような現象を体験したことがありますが、この時は、高杉晋作論について、いつもよりはよく書けたような気がしていましたので、余計にショックが大きく、気分を取り戻すまでにやや時間を要してしまいました。

さて、作家の司馬遼太郎は、『世に棲む日日』のなかで、

「晋作が議論家から革命家になるのは上海から帰国後であるといっていい」

と述べています。

ここでいう、「革命家」とは、どういうことなのでしょうか?

辞書によれば、革命家とは、短期間に組織や社会を変革する人(政治家)のことをいうようです。

晋作は、「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と伊藤俊輔にいわれるほどですから、それこそ短期間に、当時の長州藩と幕府を変えた侍でしたので、彼のことをそう呼ぶことに少しの違和感もありません。

同時に、司馬の観察は、晋作が上海行きで、単なる「開国論者」にはならなかったことに及びます。

これは、イギリスにいった井上聞多や伊藤俊輔とは大きく異なることでした。この場合、開国論者とは、西欧の科学技術や文化に触れて、すぐに鎖国を止めて、開国すべきと主張する者のことをいいました。

晋作は、帰国後に、この開国論者とは逆の「激しい攘夷論者」になったのでした。そして、イギリス人暗殺や公邸の焼き討ちを計画しますが、これには、彼独特の「戦略」がありました。

革命家は、世の中の組織や社会を急激に変えようとするわけですから、それをどう実現するかの基本的作戦を描くことが必要になります。

この基本的作戦が戦略に相当するものです。

この場合、社会変革の最終目標は、幕府を倒すことでした。これは、松陰によって導かれた結論であり、その教えの正しさを、松陰が亡くなって数年後に認識します。

幕府を倒して日本政府をつくる、これが、彼の革命の最終目標ですから、そのことを明確に理解したのも上海に行った時でした。

諸外国は、実質的には、徳川幕府を日本の政府とは見ていない、その実体は、徳川という大大名にすぎない、彼らは、水戸藩や薩摩藩が有力だと思っている、これらのことを直接聞かされ、理解したのでした。

また、このように、非常に統率がない、遅れた幕藩体制では、諸外国から責められて、目の前の清国のようになってしまう、この「怖れ」を正確に見抜いたのでした。

同時に、西欧の進んだ科学技術、軍事技術に接し、それを積極的に取り入れることで軍事力を身につける必要があること、さらに、その軍事力を身につけることで、幕府を確実に倒すことができることを確信したのでした。

晋作は、この軍事技術の理解に優れている、すなわち、明るい頭を持ち、同時に鋭く判断ができる能力を有していましたので、この進んだ科学技術の力を利用する戦略を描くことができたのでした。

こうして、清国の状況と西欧技術に優れた理解力を発揮できたことが、晋作の戦略構想の具体化に役立ちました。

結局、晋作は、直観に優れた現実主義者であったように思われます。

つづく