たとえば、こんな話がよくあります。
孫が生まれ、その孫が大きくなって小学生になり、運動会があるとします。
運動会には駆けっこが必ずあります。走って速さを競うのですから、ある意味で単純な競技といえます。
幼いころの記憶を辿ると、私は、たしか紅白リレーに出ていたので、その時は速い走者だったのだと思います。
ところが、高学年になるにしたがって、徐々に順位を下げていきました。どんなに頑張っても、先頭を走ることができなくなってしまい、1位になれない悔しさを、いまだによく覚えています。
ここまですと、まだよい方の話かもしれませんが、それが、最初から後ろの方を走るだけの孫の話になりますと、顔が自然に曇ってしまいます。
いくら懸命に走っても追いつけず、三位入賞もできない、この状態から脱出する方法はないかと、いろいろな対策を考えることになります。
まずは練習、これに打ち込みます。また、目標を持ち、それを達成しようとします。タイムを計り、競い合います。
先輩に練習が好きな方がいて、小学生の頃によく走らされました。素足で馬の雲を踏みつけて走ると足が速くなりと聞かされ、糞を踏んづけては走りました。
不思議なもので、この練習とおまじないのおかげでしょうか、走るのが速くなり、おかげで紅白リレーにも出られるようになりました。
ところが、孫たちの方はそうはいかず、いつも8位か9位ばかり、一度も3位入賞を果たしたこともありませんでした。
「ーーー これは生まれつきなのだ!おそらく、DNAの次元から違っていて、速く走ることができないのだ!」
こう思ってしまうと、そこから抜け出すことは、なかなか容易なことではありませんでした。
現に、近所のケンちゃんは、いつも最後尾で、いくら馬の糞を踏んで走っても、その順位が変わることはありませんでした。
しかし、これが孫のような存在になりますと、やや事情が異なってきて、なんとか足が速くなる方法はないかと思案をめぐらしてしまいます。
馬の糞を踏んづけるよりも、もっと良い方法はないか、とついつい考えてしまいます。
風呂に入って足を揉んだらどうか、走った後に足を冷やしたらどうか、サロンパスを貼ったらどうか、そして、終いには、速く走れる食べ物や水はないか、など、いろいろなことが頭に浮かんできます。
そして最後には、やはり練習が一番、と練習に励むことになります。
これは、走ることに関しては、生まれつきの凡才が天才を上回ることに挑むことであり、駄馬のDNAがサラブレッドのそれを上回ることをめざすことを意味します。
この目的の成就が、いわゆる「ブレイクスルー」であり、そこには、「重要な何か」が「起こった」ことになります。
いつもは8位、9位が、それぞれ3位になった、これは、重要な変化であり、そのことを当の本人らは、格別の喜びを持って体験的に理解したはずです。
ここには、生まれつきのDNAの違いよりも、よる積極的な変化をもたらす何かが存在していたからであり、それこそ「重要な何か」なのです。
孫にとってみれば、下位低迷からの脱出であり、次の段階に進む可能性が生まれたことを意味していました。
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