上海帰りの晋作は、すでに革命家としての戦略と戦術を描いていました。

当面の戦術において、「攘夷」を唱えることについては長州藩の武士たちと一致していました。しかし、その戦略においてはまったく異なっていました。

当時の長州藩の志士の面々は、開国を行おうとする幕府に対抗するために朝廷の力を利用することに熱心で、そのために「攘夷」を唱えたのでした。

晋作は、この戦略に限界があることをすぐに見抜き、「長州藩は、朝廷と幕府の仲人役を行っているにすぎない」と久坂らを批判しました。

当時、このような理解に達していたのは晋作一人でしたが、ここで重要な問題は、それが、「なぜ可能になったか」にあります。

晋作は、上海において西欧の進んだ軍事科学技術に直に接し、それを取り入れることで「幕府を倒すことができる」と直観しました。

ここが、晋作の優れたところであり、幕府を倒す最も有効な方法は、この進んだ軍事技術を何よりも優先して取り入れることであると確信したのでした。

晋作は、そのことを久坂玄瑞らの志士に強く訴えましたが、それを正しく理解できた者はおらず、ただ孤立するばかりでした。

そこで、晋作は誰よりも激しい「攘夷論者」になり、開国を行おうとする幕府と攘夷の長州藩を対峙させようとします。そのために、外国公使の暗殺や公邸の焼き討ちまでを企てました。

「ーーー 幕府を倒すためには、長州藩が一つや二つ、潰れてもよい」

とまで考えるようになりました。

長州を「攘夷で煽り」、幕府と対峙させ、最終的には、幕府と長州を戦わせる、これが晋作が描いた戦略であり、実際に、この戦略の通りになっていきました。

すでに、長州の志士たちは、蛤御門の変で薩摩に敗れ、晋作が唱えていた自前の富国強兵策が重要であることを深く理解するようになっていました。

晋作は、革命的現実主義者として、その都度の局面において、実践的に彼独特の革命戦略を実践するとともに、仲間の志士たちを教育していったのでした。

ここで、晋作の人物像をより詳しく考察するために、同じく革命家であったユリウス・カエサルとの比較を試みることにしましょう。

つづく