翌朝早く、周布政之助がやってきた。昨夜とは打って変わっていかめしい顔つきをしていて、にこりともしなかった。

建て前と本音が違う、この男は根っからの長州人だったので、それも無理からぬことであった。

松陰は、その仏頂面の周布を見て、おかしさが込み上げてきた。

「ーーー 政之助、昨夜とは、えらい違いじゃのぉー」

「吉田松陰、故あって、お主を連れ出す!」

役人らしい口調で、松陰に言いわたした。

「ーーー どこへ連れ出すのじゃー、政之助、お主は何を・・・・・」

「金子のところじゃ、線香のひとつもあげてやってくれー」

松陰は、金子といわれて、素直に聞き入れることにした。彼が亡くなったのは先月のことであった。

それに、彼が亡くなった岩倉獄は、道を隔ててすぐのところにあり、そこに行って金子に声をかけたかった。

「ーーー お主を死なせてしもうて、すまんかった!」

「政之助、今頃になってどうしたんじゃー」

「だまって、おとなしく、わしについてこい!」

金子の居た牢屋に入ると、ろうそくと線香が置かれ、その前に、きれいなグラスがひとつあった。

「もしや、このグラスは、あの時の・・・・」

そのグラスは、あのペリー提督と面会したときに出された赤い酒を飲んだ時のグラスであった。

「ーーー そういえば、この酒の席で、金子は、何か盛んにお願いしていたが、このグラスのことだったのか・・・。それにしても、金子は、あのとき美味しそうに赤い酒を飲んでいた!」

「遅くなって済まんじゃったのぉー、ゆっくり金子と話をしてくれー」

松陰は、政之助の友情に涙を流して感謝した。

「金子、済まんじゃった。済まんじゃったのぉー・・・・」

金子のグラスの前で、松陰は、ひとり泣き暮れた。いつのまにか、周布も牢屋の役人も、そこには居なくなっていた。

わずかに射しこんできた朝の光に、牢屋の床から蒸発した水蒸気がきらきらと光っていた。

「松陰、松陰よ!」

しばらくして、松陰は、自分の名前を呼ぶ声に気付いた。周布政之助の声ではなかった。もちろん、金子の声でもなかった。

どこかで聞いたことがあるような声であったが、それが誰であるかを思い出すことはできなかった。

「松陰よ、わしじゃよ、松陰!」

つづく