寅次郎は下関の彦島をめざして馬を飛ばした。

「ーーー 晋作、俊介、すまんのぉー」

弟子たちの師を思う心が嬉しく、涙が頬をつたい続けた。

ところで、寅次郎はどうだったは不明であるが、長州人には、「すみません」と口癖のようにいう人が少なくない。これも県民性であろうか。

宇部の本屋の店主は、この「すみません」を連発していた。ひとつの会話で、これを連発されると、こちらまで、「すみません」という気持ちになった。

「ーーー わしとかかわると、自分の身が危うくなるというのに、あの者たちは・・・・・」

満点の星空の下、寅次郎は長戸路を一気に南下し、海岸に出てきた。

「ーーー ここから彦島までは一本道である」

かつて、佐賀藩に勉強にいったときに通った道であった。

「ーーー 思えば、あれから、いろいろなことがあった」

世の中が大きく動こうとしているときに、寅次郎は、その歯車のひとつに、いつのまにか自分がなっていることを悟っていた。

「ーーー これから、どうなっていくのであろうか?」

一端、閉ざされて、もう終わりかと思っていた道が、いまここに再び開こうとしている。そうせい公、周布政之助、晋作、そして俊介、それからペリーと、彼らが走馬灯のように浮かんできた。

「ーーー 政之助、済まん!ありがとう。晋作、俊介、君らの気持ちを決して無駄にはせぬぞ!」

眼前にある一本道と海、それは「運命の分かれ道」であった。

そして今は、この道を行くしかなかった。馬を引くたずなを改めて握り直した。

海の向こうが、やや明るくなってきた。もうすぐ彦島が見えてくるはずである。

「ーーー よかった。これで明け方には着けそうだ!」

ほっとした寅次郎は、だれもいない浜辺で、しばしの休憩をとった。

「ーーー 予想だにしなかったことが起きてしまった。あのまま野山獄につながれて生きていくのだと思っていた。

それにしても、あのペリーが急に変わったのか? あのとき、彼は、わしたちの密航を頑なに拒んだ。

それが、なぜ変わったのであろうか?

そして、そうせい公に密書まで出して、わしを水夫として雇いたいといってきた。

ありがたいことに、そうせい公は、それを黙認し、周布に対応を任せた。

周布は、わしのアメリカ行きに、長州藩の未来を委ねた。おそらく、晋作にも話をして協力をお願いしたのであろう。

これらが明るみになれば、攘夷、攘夷と息まいている長州藩は、さらに上へ下へと大騒動になるであろう。

周布や晋作も、無事では済まされないであろう。それを承知で、わしを送り出してくれた。

わしは大変なことをしようとしている。身体を張って、かれらに,ご恩返しをしなければならない。

命をかけて、アメリカで勉強しなければならない」

後ろの山手から朝陽が昇ろうとしていた。その光で、目の前の海がほんのり色づいていた。

彦島沖までは、もうすぐのところまで来ていた。

寅次郎は、再び馬に乗り、走り出した。

海は朝陽に色づきを増していた。穏やかな日本海、寅次郎が立ち去った後には、わずかな潮騒のみが残っていた。

(「寅次郎の夢(第一部)」は、この稿でおわり)

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