映画「7人の侍」を見直して、次の2つのことに気付きました。その一つ

は、その侍たちの顔が輝いて見えたことです。先日、テレビのアーカイブ番

組を拝聴していたら、映画評論家の淀川長治さんが、こういっていました。 

「『7人の侍』は顔、顔がいい!」

とくに印象深かったのは、戦いを準備するときの侍たちの顔は、なぜか生

き生きとしており、未熟な「若い侍」を除いては、これから勝てる戦をしよ

う、そのように語っているかの表情で、それは十分な作戦会議を踏まえた結

果と推測しました。

加えて、菊千代の素人教員ぶりは名演で、熱が籠ってユーモラスでした

が、彼の内面からは、「俺でも教員になれる」という喜びが伝わってきまし

た。

 もう一つは、丁寧に描いてきた前半の最後で、本ブログにもよく登場する

K先生の好きなシーンです。己の欲のために、分裂行動を取ろうとする農民

に、リーダーの島田(志村喬)が初めて刀を抜いて走り出します。個人の欲

を優先させて抜け駆けを行うことは許さないという、リーダーとしての強い

意思を示すシーンですが、これが前半の最後をぐっと引きしめます。

 この農民たちには、たとえ自分の家を守ることができても、そのときに

は、村全体がやられ、最後には、その自分の家も壊され、自らも殺されると

いうことを理解させる必要があったのですが、そのことを諭すリーダーの言

動には迫力がありました。

ところで、この小欲に流れる言動は、映画の中だけではありません。マ

イクロバブル技術に関しても、常に発生してきた必然的現象とさえいえ、

これまでにも数々の事例を見てきました。崇高な研究を行う学者といえど

も、その例外ではありませんでした。もしかしたら、人間である以上、そ

のような安きに流れることは避けられないのかもしれないとさえ思ってい

ます。

しかし、これから戦を率いるリーダーにとって、その中に「致命的な分

裂」を持ち込むことはいささかも許されません。ましてや、自らが、その

分裂を持ち込む当事者にもなってはならないことです。この島田の抜刀

は、そのことの意味をも示していたのではないかと思います。

すこし前置きが長くなりました。先に、戦いを前にして、その準備をす

る侍たちの顔が輝いているのではないかとさえ思えた話をしました。その

奥には、今度こそ「誇るべき戦ができるかもしれない」という思いが溢れ

ていたのではないかとも思いました。そして、この時点で、お百姓さんに

雇われた戦であることよりも、自分たちのための戦であると思い始めたの

ではないでしょうか。

私には、そのために「分裂は許さぬ」と刀を抜いた島田の顔が、同じ俳

優の志村喬が演じた映画「生きる」の主人公の顔と重なって見えてしまい

ました。
これらの映画は、今から数十年も前に制作されたものですが、それらが

鮮やかに蘇ってきたのは、この映画とよく似た構図のなかで、私たちの

「阿智村プロジェクト」の取り組みがなされているからで、同じような思

いを共有できるのではないか、そうであれば、もっとそれを深く考えてみ

たいと思い続けてきたからです。

 時は、2008427日の午前11時、場所は、長野県阿智村の波合支所前

の芝生の広場、5月の陽光がさんさんと降り注ぐ下、大勢の方々が見守るな

かで、「ブレイクスルー技術研究所阿智」の開所式が挙行されました。

  私は、岡庭村長の挨拶に続いて、次のように述べました。

 「このブレイクスルー技術研究所阿智の設置は、私を含めた高専教員の40

数年来の念願であり、これを拠点にした取り組みは、阿智村の振興・発展

のためではありますが、それだけに留まらない私たちの課題でもあること

をよくご理解ください。そのために、私たちは、自らが『ブレイクス

ルー』することも考える必要があります」

このとき、私の顔が輝いていたかどうかを確かめる術はありませんが、

いよいよ本格的な戦が始まることになりました。侍としての真価も、この

阿智村プロジェクトの成功の可否にかかっています。

映画では、その後半において本格的な実戦が繰り広げられます。それに

相当する部分は、これからの阿智村プロジェクトの未来を見ていただくし

かありませんが、このプロジェクトには、ここ1年弱の前哨戦もありますの

で、その重要な部分を、これから紹介させていただきます。