あれから,このハスの花の大群が咲き誇る湖畔を訪れ,夕べに語らう人々の間に溶け込む「ここちよさ」を抱くことが,いつしか私の楽しい習慣になってしまった.

 もちろん,白いひげの年輩の方とも親しい会話を続けることができた.その方とは,まず最初に盛り上がったのが「胡椒談義」であった.

 「この国の胡椒は『世界一』といわれていますが,それを味わったことがありますか?」

 「いえ,ないですね.普段の食事において胡椒を使うことはあまりありませんので,この国の胡椒が世界一だとは知りませんでした」

 「そうですか.この胡椒の味を知らないということは,この国のよさを半分も理解していないことに相当しますね」

 この方は,この国の胡椒に相当な自信を持っているらしい.

 「何に,かけるとよいのですか?」

 「それが何でもよいのですよ.それをかけると,何でも美味しくなる,独特の風味が出てくるのですから,不思議なものです」

 「そこまでいわれると何か食べてみたくなりますね」

 「どうでしょう,いまから私の家まで行きませんか.とっておきのワインもありますよ」

 胡椒にワイン,どのようなコンビネーションになるのか想像もつかなかったが,ここは,それらに惹かれてみようと思い,この年輩のお方を訪ねることにした.

 お宅は,この湖のすぐそばにあった.緑に囲まれた屋敷で,この地域では珍しい洋風の二階建てであった.

 まず,玄関に入って,すぐ隣にあった洋画が気になった.しかし,これが誰のものかは判別できず,その前を過ぎると,その正面に,また,趣の異なる洋画があった.これは,鉛筆によるデッサンらしい,陰影が独特で,これも気になった.

 そのまま二階に案内されたが,その突き当たりの左が,その方の書斎らしかった.「ここに,どうぞお座りください」といわれ,古びてはいるが,深い座り心地のよい北欧風の椅子であった.

 彼は,自分の机を前にして座り,私は,その深く座る椅子に身体を預けるという対峙のスタイルが自然にできあがった.

 このとき,ふと,その左側の壁を見やると,そこには額縁が取り払われた素肌の小さい絵がかけられていた.白と黒,そしてこげ茶色だけの,どちらかといえば重苦しい絵であるが,そこには凛とした鷹が描かれていた.

 どこかで同じような作品を見たことがあると思ったが,それが思い出せない.しかし,その鷹の目は鋭く,どうやら,こちらを睨んでいるようにも思えた.

 この鷹の目と同じような鋭い目付きの初老のご主人が,少し表情を和らげていった.

 「やはり,その鷹が気になりますか?なかなかよい表情をしているでしょう!」

 「凛とした目付き,それから背筋がピンと伸びたところがよいですね」

 こういうと,さらに,この御主人の表情が崩れた.

 「そうですか,その目付きと背筋が伸びているところが何ともいえず,前に進む,という意気込みが感じられます.額縁を外すと,それがさらに強調されますので,思い切って,額縁を外すことにしました」

 このように額縁を外した絵を見たことがないが,これが,この方の「自分流」の鑑賞方法であった.この話のなかで,この作家が,山口県出身で,第二次世界大戦時にシベリアに抑留され,その苦難のなかで,この暗い描写法が生みだされ,有名な「シベリアシリーズ」を描いた方であることが紹介された.

 「あの,KAZUKI, 香月泰男の作ですか!なるほど,これは若い時の作品ですね」

 いつのまにか,胡椒のことなど,すっかり忘れて,まずは二人の「絵画談義」に話の花がさいていた.

 その話が落ち着いたころに,上品そうな赤ワインが出された.この方は,ワインについても,かなりの「通」らしい.どうやら,自宅の地下には空調の利いた倉庫があり,そこにはかなりの数のワインが貯蔵されているようであった.

 ここでまた,ワイン論議で盛り上がった.私は,若いころにドイツ留学をした際に,本場のワインについての薫陶を受けたが,それは主として白ワインであり,この御主人が好きなのは赤ワインであり,この話は,盛り上がりながらも,いつまでたっても,その赤白が溶けあうことはなかった.

 「それにしても,美味しい赤ワインですね.このようなワインを飲んだことがありません」

 絵画に続いて,赤ワイン談義が延々と続くなかで,肝心の胡椒のことは,さらに,頭の隅の遠くに追いやられてしまっていた(つづく).

J0402796