研究室移転の作業がほぼ落ち着いてきました。しかし、外の廊下には、段ボール箱約100個に入った本や書類が置かれたままです。

 室内にも、約10個程度の同じ箱と机の上には未整理の書類の山がいくつもできています。とにかく、これで新たな研究室生活のスタートを切れたので、早速、隣室のKさんのところに挨拶に行きました。

 このKさん、とても小気味がよく、大手企業で活躍されてきた方ですから、私と話がよく合います。私は、こういって挨拶させていただきました。

 「Kさん、せっかく隣に来ましたので、あなたとの協力共同を発展させる必要があると思っています。どうか、あなたの立場を活かして、取り組みが発展するようによろしくお願いいたします」

 こういうと、Kさんは、とてもうれしそうで、私の提案に共感してしていただけそうでした。

 さて、このテクノセンターについては、私の若かりし頃の思い出がいくつもあります。このセンターができる前は、「地域協力開発センター」という「看板一枚」のセンターを設け、その責任者をしていました。

 この時期は、1980年代後半から1990年代前半にかけてですから、全国的には、「地域に根差した高専づくり」や「地域貢献」という「用語」すらなく、それらの先駆けとなる活動を開始したころでもあり、西も東もわからい状態での取り組み開始でした。

 それから、振り返れば30年余、私の地域に対する取り組みも、相当な年月を重ねることになりました。

 おかげで、地域の人々と交流することができ、現場の問題をたくさん学ぶことができました。そして、その途中からは、運よくマイクロバブルに出会うことができ、それとともに生きる研究生活を過ごすことができるようになりました。 

 この地域に出ていく活動をしなければ、私のマイクロバブル人生はなかったともいえますので、さまざまな困難のなかでしたが、その意味で非常に重要な取り組みとなりました。

 その30代前半の頃に、すなわち看板が1枚しかなかった頃に、次の言葉を思い浮かべていました。

 「前門の獅子、後門の虎」

 前門とは、地域に林立する企業のみなさんであり、当時の世間知らずの未熟な私にとっては、企業の方々が「獅子」のように怖く思えてしかたがありませんでした。

 事実、恐る恐る企業訪問をすると「何しに来たのか」、「金をもらいにきたのか」とまでいわれたこともありました。

 しかし、この獅子たちには道理を尽くして私の立場を説明して「仲間になってください」ということで、すぐに理解を得ることができましたが、もう一方の虎の方は、そう簡単ではありませんでした。

 ここで、その虎の生態をあからさまにして詳しく述べることは控えさせていただきますが、今でも、この構図はあまり変わっていないような気がしますが、いかがでしょうか。

 むしろ、それが、さらに進んで、黒船がやってきた時と同じようになっているのかもしれませんが、この黒船をいろいろな方が見て、いろいろなことを考えました。

 吉田松陰も、その一人でしたが、彼は、その黒船に乗り込んで、その進んだ異国の文明を知りたい、体得したいと考えたのですから、これはかなりの「プラス思考」でした。

 この時、松陰がこの乗船に成功し、アメリカに渡航して、その文明を存分に身につけて帰ってきたらどうなったでしょうか。そして、坂本龍馬や勝海舟と洋行帰りの松陰が出会っていたら、どうなったのでしょうか。

 この歴史的「もしも」を想像するだけでも楽しくなりますね。おそらく、松陰も、その弟子たちも、その後の歴史を十分に変えてしまうほどの活躍を成し遂げたことでしょう。

 おそらく、黒船を迎えた幕藩体制とよく似た状況が今も色濃く残っているような気がしますので、勝海舟+坂本龍馬+吉田松陰、この三者が力を合わせたらどうなるか、それを21世紀の今に生かす、このような発想で動くこと、そうするとどうなるでしょうか。

 仕事の合間に、このようなことを考えながら、新しい研究室で思いを巡らしています。この3人のなかでは誰が一番早く、マイクロバブル風呂を気にいるか、これも思案してみましたが、これは、やはり龍馬でしょうか。

 「龍馬が愛したマイクロバブル」、そのうち、このようなテーマで記事を書く必要がでてくるかもしれませんね。

 富士 

富士吉田市HP提供