本日は、暖かい日差しと桜の満開のなかで入学式が行われました。15歳の若い世代がこれから5年間学んでいくことになります。全国的には半世紀余も、この高専入学式が毎年なされてきました。

 設立当初は、6、3、3、4制の教育システムから外れたことから、「鬼っ子」とも呼ばれた高専でした。

 しかし、地域から入学する学生を中心にした教育システムをあみだし、まじめに教育成果を生み出すことを追及してきたこと、そして年々、優秀な入学者が教育的課題をこなしていったことが、高専の本質的な発展をもたらすことになりました。 

 このように時代に適合した高専づくりは簡単にできあがったものではありません。

 多くの良心的で民主的な高専教員が、このままではいけない、学生たちの恥ずかしい思いをさせていはいけないと高専教員としての「一分」を果たそうと努力してきたことに、その原動力がありました。

 とくに、高等教育機関として、学生たちに第一線の技術を学び、実践的に修得していただくために、自らも、時間がない、予算がない、装置がない、研究を大切にする環境がないなどの不利な条件のなかで、まさに、地を這うような努力をして、今日の「高専の水準」を高めることに寄与してきたのです。

 ここに、日本の高専の特殊性があり、世界的にも珍しい稀有な発展を成し遂げてきた成果があるのです。

 しかし、この地を這うような努力は、今もなお存在し、そして今後も継続される必要があります。それは、上記のような脆弱な環境下においては、常に自壊していく可能性を秘めているからです。

 より時代が進めば進むほど、そして、自らの年を重ねれば重ねるほど、そのことが鋭く問われるようになるのです。

 具体的には、「教育か研究か」という対立が薄れ、「教育を口実にして研究をしない」か「教育も研究も発展させ、対立から融合へと進化させる」のいずれかに変化していくようです。

 この後者を成し遂げることは容易ではなく、そのために地を這うような努力をし、「命をかけての戦い」に挑むようになります。これが「高専教員の一分」ではないかと思います。

 幸いなことに、マイクロバブル技術は、この地を這う努力の中から生まれてきました。その創生に巡り合ったことを非常に幸運と思っています。

 さて、昨日の会議においても、「命をかけて」という言葉が出てきました。若い人が、このような発言をしたことに、すばらしい未来を感じることができました。 

 私も、これと同じ思いをしたことがあります。入院中の母の看護をして、夜遅く雨の中を自宅に歩いて帰る途中でのことでした。このような思いをすれば、なんでもできるのではないか、そのように思いました。

 まだ、マイクロバブル発生装置が完成する前のことでした。

 これらの言葉に励まされ、「ブレイクスルー技術」の開発に挑むつもりです。 この意味ある会議が終わって、気分がさわやかになり、夜桜見物に出かけました。

 もちろん、その会議の結果を振り返りながら、夜桜の美しさをすっかり堪能させていただきました。


Sakura-4 

撮影は大成由音氏です。