2日前に、NHK「クローズアップ現代」を拝見しました。大変興味ふかく、また、「時代が進んでいる」ことを改めて知らされることになりました。

 特殊な藻から、燃料を造りだす技術が真剣に検討されていることが詳しく報じられていました。

 わが国でも、その先駆者がいて、その方が紹介されていました。

 長年積み重ねてきた研究の成果が、このような時代になってきて脚光を浴びるようになってきたのですから、研究は、長い目で見ると何が起こるかわかりません。

 おそらく、「きっといつかは、役立つ日が来る」と思われて、研究を粘り強く推し進められてきたのだと思います。

 また、番組では、アメリカなど諸外国と日本における支援の違いも指摘されていました。

 「グリーンエネルギー」としての見通しを持って、100億円もの直接的支援を行うアメリカ政府と、それがほとんどないわが国とでは、「雲泥の差」があることも強調されていました。

 未来を見通す力、新たな可能性を見極め、それにかける先見性、これらが決定的に重要であることを、それらの関係者は、きちんと認識する必要がありますね。

 また、日本の若い研究者の方々にも、そのことのふかい意味を考えていただきたいですね。

 自然水域に存在するという「油を出す藻」、それを見出し、ここまで持ってきた「研究力」、これにはとても素晴らしいものがあります。

 長い間、毎日、毎日、藻を観察しながら、それと格闘してきた成果だと思います。

 しかも、その成果を通じて、多くのみなさんに、エネルギー問題の解決という夢と可能性を提示できたのですから、これは最高に素晴らしいことといえます。

 華やかな先端研究ほど、文字通り、その先端を追うわけですから、「何かよいように思われがち」ですが、その先端を追うがゆえに「危うい」ものなのです。そして通常は、そのことに気がつかないのです。

 その「危うさ」を、さらに、その先端を「追い求める」ことでカバーしようとするからです。

 これに対し、藻のような地味な研究は、そのような研究自体が成り立つかという「危うさ」を有しているように思われてしまいます。

 しかし、それは、先端の先端を追い求める危うさとは本質的に異なるものです。それは、藻自身が有する性質であり、ここには、その絶対的な自然の本性が、そのまま存在し、それが直接、その帰趨を決めてしまうからです。

 これは、マイクロバブルがマイクロバブル技術の発展性や未来を決定づけるという問題と良く類似しています。

 同時に、緑藻の大部分は、これまで、やっかいものと思われることが多く、その典型は、アオコや赤潮でした。ところが、そのなかに、地球の未来を切り開くかもしれない藻が存在していたというのですから、これも大変おもしろく、「ゆかいな話」です。

 まさに、「ひょっこり、ひょうたん」の類です。

 研究というものは、本来、このように、「おもしろくてゆかいな」こと、「心浮き立つ内容を有するもの」なのですが、いつのまにか、「論文を書いたか?」、「その数は?」ということになり、最近では、「外から研究費を稼いできたか?」とまでいわれるようになりました。

 そういわれ続けると、そのうち全体が、そのように動くようになりますので、「おもしろくてゆかいな」話は、どこかにいってしまいます。あげくのはてには、「そんなことはどうでもよい」と思ってしまって、さまざまな後退を繰り返すことも珍しくありません。

 これもおかしな現実です。このような事例に遭遇したときに、それを素にして自らを振り返ってみることが必要ですが、これも普通に、なかなかできることではありません。

 しかし私は、この衝撃を真正面から受けとめ、それを試みることにしました。これは、自らに、「ブレイクスルー」の新たな可能性はないかを問い続けることであり、それを成し遂げることは少なくない意味があるのではないかと思うからです。

 「雨にも負けず、風にも負けず」、そして「ゆかいなことはあくまでゆかいに」、このような思いで「問い続ける」ことが必要なのではないでしょうか。

 この「藻から油」で、石油や石炭をあてにせず、原発も要らない、風力や太陽光に依存しなくてもよい、このようになるには、まだまだ、大きな壁がいくつもあるようで、時間もかかりそうです。

 それゆえでしょうか、「どこかで、この『ひょっこり、ひょうたん』の課題と切り結ぶことができたらよいな」、その番組を拝見した後に、このような思いが過りました。

 「『過りよ』、今夜もありがとう!」というところでしょうか。

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