辞書をひもとけば、「試練」とは、「信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと。また、その時に受ける苦難」とされています。

 すなわち、苦労を伴って厳しく試すことの行為や精神状況のことを表すことのようです。砕けていえば、苦労も厳しさも伴わないものであれば、それは「試練」とはいえないということだと思います。

 人生には、このような試練ともいうべき時期が何度かあると思いますが、こうして30年余もマイクロバブルと付き合ってきますと、その「人生の試練」が、時として、「マイクロバブルの試練」となることもあります。

 なぜなら、私の人生の後半は、マイクロバブルそのものとなり、それは「マイクロバブル人生」といっても過言ではない段階にまで到達していったからでした。

 最初は、マイクロバブルのすぐれた性質に関する理解が不十分でしたので、今日の事態まで見通すことはとてもできませんでした。

 この時の詳しい様子は、拙著『マイクロバブルのすべて』に詳しく書かせていただきましたが、それは、現場での実践を行うとともに、その基礎的な科学的解明を行うという2つの課題を有するものでした。

 結果的に、徐々にしか発展せず、今日までの歳月を費やすことになりました。確かに、牛歩のようにノロノロとした遅い発展でした。

 しかし、それだけ、未知の課題が多く、同時に、一歩一歩と着実に科学的解明を積み重ねていくというやり方が間違っていなかったのだと思います。

 さて、その過程で、マイクロバブルが試練を受けることがいくつかありました。今、振り返ると、それが文字通りの「試練」であったことがよく理解されます。

 すなわち、後から考えると、「確かに、それが試練そのものであった」と明らかになるのですが、ここでおもしろいのは、その試練に共通する普遍的な課題や教訓があることです。

 厳しく、そして小さくない苦労を伴うことを試すこと、それがより顕著であればあるほど、その「ふかくておもしろい」課題や教訓がより鮮やかに浮かんでくるのです。

 数えて何度目かの試練を迎えている今日、それらを振り返りながら、「まじめに」、そして「ゆかいに」考察を試みることにしましょう(つづく)。

J0433185